●心の視野をほんのちょっと広げてみるだけで

”真実は外にある”

歪んだ家庭の中には、この世の中で一番良いのは家であるという意識を、家族に植え付けようとする過程がある。
対人恐怖症のはじまりである。

会社はくだらない、よのなかのつきあいはくだらない、不本意に頭を下げたり、お世辞をいいあったり、じつにくだらないというようなことを家族にいい、家の外のくだらなさを印象付けようとするのである。「心にもないお世辞を言いあって、いやだねえ」というような言葉で、真実の愛はこの家庭の中にしかないというようなことを主張する。
つまり「こっちの水は甘くて、あっちの水はからい」という歌の通りだというのである。
それが「男は一歩家の外に出れば七人の敵がいる」というような言い方になる。さらには「鬼は外、福は内」という節分の豆まきにもなっていく。

ここまでくれば、かなり日本の一般の家庭に近づく。

歪んだ家庭は、家庭の中に偽りの相互性を維持する為、外に敵をつくる。
それが、「会社は、足の引っ張り合いだよ」というような言葉となって現れる。
対人恐怖症の始まりである。

対内結束と対外敗排斥の同時性、これは、古来、政治家が国民の結束のために常に利用してきた原則である。
外に敵をつくる、それが国内の矛盾を乗り切るひとつの有効な方法なのである。
いかにも対人恐怖症的である。

同じことは歪んだ家庭にも当てはまる。家の中の一体感が偽りのものであればあるほど、そとに憎悪の対象をもとうとする。家族が絶対のものであればあるほど、その一体感は見せかけのものである可能性が強い。「世の中はだましあいとウソだけだよ」というようなことをいいつづけ、抑圧された憎悪や軽蔑の感情を家の外に向ける。

このような家庭で育てば、当然外の世界に対して恐怖や憎悪の感情をもつことになろう。
こうした対人恐怖症の人間が、他人と会って真の相互性を確立することがむずかしいのはとうぜんである。
そういう対人恐怖症の人は、他人と会えば警戒するだろう。
弱点を見せまいとするだろう。
他人が、事実としてこちらに好意を持っていても、安心できないだろう。

家庭の中は暖かく、外は寒いと教えられてきた人が、他人と温かい感情をこうりゅうさせにくいのは容易に想像できる。

ほんとうは逆なのである。
対人恐怖症の人の家庭の内にあるものはすべて見かけだけのもので、真実のものは外にあったのである。
対人恐怖症の人の家庭の内では個人の人格が認められず、真の思いやりもやさしさもなかったのである。真の思いやりややさしさは、外にあったのである。

※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著