●自分をよく見せる努力は自分を傷つける。

”何も期待しないで”

シュヴィングの本の中に、こんな症例が出ている。

シュヴィングが患者を訪ねた後、今度また訪ねていいかどうかを聞く。
すると、患者が紙切れに次のように書く。

「やさしい看護婦さん!あなたにお目にかかれてとても嬉しい。
私は本当に心が静まり休まります。またいらしてください。
けれどお話し合いを期待しないで。
ただ私を慰めてください。」

この文の中で、「けれどお話し合いを期待しないで」というところがなんとも痛々しい。
この対人恐怖症患者は他人から何かをきたいされることに消耗しつくしているのではないだろうか。

小さい頃から一方的な感情を押し付けられて育ったのではなかろうか、それでは対人恐怖症になるのも無理はない。

一方的な感情をおしつけられるということは、過重な期待なのである。

自分がその時々でどのような感情をもつかをつねに期待されているということである。

ある時は陽気でいることを期待され、ある時は悲しむことを期待される。
期待されることを拒否することはできない。
しかし、実質的には強制である。
そして対人恐怖症に陥っていく。

ある人を尊敬するように、また、ある人を軽蔑するように期待される。
「けれど期待しないで」これは一方的な、あるいは歪んだ感情を押し付けられて育ってきた人間の心の叫びではなかろうか。

対人恐怖症の人は期待されると、それがどんなに不当なものでも、それに応えようとする感情のくせがついてしまっている。
無理をしてでもこたえようとする。
それが辛いのである。

シュヴィングは、数日間いつも同じ時刻に、三十分ほど患者のベッドのかたわらに静かに座ることにしていたという。

対人恐怖症の人のように期待に応えることに疲れた人間にとって、自分に何もようきゅうしないでただ側に座っていてくれるということは、なんという救いであろうか。

ある対人恐怖症の学生は、小さい頃病気になると辛かったという。
必ず朝父親がきて「どうだ?」と聞く。
その時「よくなりました」と答えなければならない。
親が自分にどのような答えを期待しているかを感じ取れる子どもは、毎日「よくなりました」と答えながら病床にいつづけることになる。

幼稚さとは、要求がましさなのである。
親の情緒的幼稚さは子どもの精神を消耗し尽し対人恐怖症に陥れる。

劣等感の激しい父親を持つ子供は、新聞を読んでも、テレビを見ても、偉い人が出てきたときにはとにかくけなさないと、父親が不機嫌になる。

逆に、いくらほめても父親の虚栄心にとって脅威にならないような人物は、ほめなければならない。
ある人を尊敬することを期待され、ある人を軽蔑することを期待されて育つと、自分自身、本当に尊敬したり、軽蔑したりということができなくなる。

このように、常にある感情を押し付けられたリ、ある感情を期待されたりして育つと、大人になって対人関係で錯覚をする対人恐怖症になる。

世の中のすべてが要求がましいわけではない。
ところが要求がましい人間をモデルにして、人間のイメージをつくってしまっている。人間とはこういうものだというイメージが自分の中にできあがっている。
そして大人になって他人に会う。

すると、自分の中にすでにあるイメージをその他人に押し付けてしまう。
そして、今、目の前にいる人間は、自分にかくかくしかじかのことを期待していると錯覚し、圧迫感を覚え、緊張する。
これが対人緊張、対人恐怖症ではなかろうか。

※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著