”「見る」「見られる」力学”
視線恐怖は他人や自分の視線に恐怖を抱くということだが、このうち他人の視線に対する恐怖は、被害者意識となって現れる。
対人恐怖症患者はどこに行っても他人に見られていると感じる。
なにを見られているかというと、多くは表情恐怖で述べた無様な顔であるが、さらにするどい目つき、いやな目つきといった内容も加わってくる。
じっさいに面接場面で見られるのは、対人恐怖症患者の訴えとは逆に、優しい目つきや表情のことがふつうである。
あえて特徴をあげるとすれば、目を伏せるか、逆に正視するかのどちらかになって、のびのびした視線の動きにとぼしいという印象を受けるれいがたまにあるぐらいだ。
とくに相手をじっと正視し、目をそらさない対人恐怖症患者は面接官としても困るけれど、その目つきはけっして怖いものではない。
にもかかわらず、自分の無様な顔、いやなするどい目つきのために、人に変な目で見られるという対人恐怖症患者の確信は、妄想と言ってよいほどに強固である。
このほかに、程度の差はあれ被害関係念慮ないし被害関係妄想がみられることが少なくない。
軽蔑のまなざしで見られているということ自体すでに妄想的といってよいが、被害関係妄想という場合は、専門的には、視線以外にも他人の言葉や態度を自分に関係づけ、被害的に感じ取る状態を指す。
対人恐怖患者は自分の目つき表情、態度などについて、他人に噂されたり、いやな奴がいるといった態度をとられると思い込む。
その確信はきわめて強固で、統合失調症の妄想との区別がむずかしいこともあるが、対人恐怖症の場合には、現に目の前にいる他人の、言葉や態度を自分に関係づけるにとどまるのがふつうである。
私たちも恥ずかしい思いをしたとき、周囲の人達から軽蔑されるかもしれないと思うことがある。
それと同じように、たとえ妄想的になっても、統合失調症の妄想などと違って十分感情移入可能である。
対人恐怖症患者はただみられるだけの被害者にとどまっていない。
対人恐怖症患者は見る他人を見返す。
視線恐怖では、「見る――見られる」という相互的な力学が働いてくるのを特徴とする。
この点はすでに森田療法が指摘しており、次のように述べている。<自分は気が小さくて、人と面と向かって話すことができないと苦にして、にらむことを稽古するものがある、・・・甚だ無礼である。>
※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著