”他人に嫌われることなんてこわくない”

色々な人が色々な症状で悩んでいるが、愉快に生きようと思えば、自分の恐怖の焦点にずかっと踏み込む以外にはない。

われわれは、他人に嫌われたって生きていける。
対人恐怖症の人が他人に嫌われるのがそれほどまでに怖いのは、心の底に、他人に対する不信があるからである。

他者を信じることができる人なら、美しく笑おうとすれば、自然にそうできる。

対人恐怖症の人は不信を心の底にへばりつかせたまま、美しく笑おうとするから、顔がこわばるのである。

しかし、対人恐怖症の人はなぜそんなにも他人に嫌われることが怖いのだろう。
なぜそんなにも理想的な人間でなければならないのだ。

普通の人は気楽に生きている。
完全ではないのに許されている。
なのになぜ、あなただけが、そんなに完全な人間でなければ生きることが許されないのだろう。

それは、完全でなければあなたを許さない人がいたからであろう。
別に世間一般の人が許さないのではない。
それを許さない誰かがいて、その人をあなたが内面化し、
自分で自分を許さなくなってしまっただけである。

「そんなに俺のことが嫌なら、どこかへ行ってくれ」といえばよかったのである。

ある人があなたの側にいることについて、あなたが責任をとる必要などない。

あなたは”愛と信頼”を強制されたことによって、自分の心の底に、”恐怖と不信”をへばりつかせてしまったのである。

なぜ、その人はあなたに”愛と信頼”を強制したのか。

それは、その人自身が心の底に”恐怖と不信”をもって不安だったからである。
自分の不安解消のために、あなたに完璧な”愛と信頼”を強制した。
あなたはその人自身の心の葛藤の解決の手段に使われただけの話である。

あなたに”愛と信頼”を強制したその人の心の中の”恐怖と不信”を見抜き、自らの心の中の不信をとりだすことができれば、他人に嫌われることなど恐くないはずである。
そして、対人恐怖症など治る。
不安な緊張からも解放される。
試合前に不安な緊張で疲れることもなくなる。
試験前に不安で神経が張りつめることもなくなる。

学生の中には、身体検査でさえ、不安な緊張におそわれる人がいる。

要するに、あなたが尊敬してやまない人は偽者だった。
この一点を理解できるかどうかである。

あなたが最大の価値をおいていた人は、心の葛藤をひとりで解決できず、弱いあなたを巻き込んだ、ただそれだけのことである。

ただそれだけのことなのだ。

※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著