”怒ったような笑ったような顔”

対人恐怖症患者の赤面するまいという克服努力の反自然性は、その結果にあらわれる。
その克服努力を繰り返していくうちに、本当に赤面しない人間になっていく。
内面では、いまにも赤面するのではないか、あるいはもうすでに目も当てられないほど赤面しているのではないかと不安と恐怖で動揺していながら、その動揺はそれほど外面には現れなくなる。外面と内面が分離しはじめ、対人恐怖症患者の顔は厚くなる。
つまりは仮面をかぶった顔となる。

表情はこわばり、態度も不自然となる。
実際は、対人恐怖症患者が訴えるほどこわばった顔や不自然な態度となる例は少数であり、シャイな人物、照れ屋といった感じのどちらかといえば好ましい印象を受ける場合が多いが、なかには文字通り仮面の表情となる患者もいる。

どちらにしても対人恐怖症患者は著しい不自然さに深刻に悩むに至る。
その際、患者自身にとって意識される自らの表情はどんなものかというと、こわばった顔、怒ったような笑ったような顔、泣いたような笑ったような顔、ぎくっとした変な顔になるなどと訴える例が多い。
能面について「中間表情」説が出されているが、ようするに、どっちつかずの中間表情となる。

このようにさまにならない顔になることへの怖れを表情恐怖という。<表情恐怖>段階に入るとともに、他人に見られ嫌われ軽蔑されるという意識がつよまり、人に会うたびにたちまち無様な表情や態度になる自分の姿に、いっそう屈辱の思いを深めていく。

むろん<赤面恐怖>段階でも、赤面に恥辱の烙印という意味あいがないわけではない。
が、まだそこでは恥じらい、照れと言った状態により近く、赤面恐怖症状発生場面では赤面にともなう困惑状態の収拾におおわらわで、人に見られ軽蔑されるという意識は前面にでてこない。
せいぜい赤面した後で、情けない人間に思われたのではないかと思う程度である。

これに対して、<表情恐怖>段階では、無様な姿を人前にさらしているという意識が症状発生場面でも前景に現れる。
外面と分離した内面での怯えや委縮感はふかまり、世間と交われない自分について他人との異質感を強めていく。

※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著