”我執性と没我性のはざまで”
ところで、1、「自」と「他」の意識と2、「間」の意識とは、どのように関連し合っているのだろうか。
この点をさらに明確にするための手がかりとなるのは、親密な人達と、見知らぬ人達という、両端における対人関係において対人恐怖症状が生じない点である。
ここでわかりやすくするために、表現を変えて図式的に示すと、図3のようになる。
図3
問題を単純化して述べると、親密集団とは、自他合体的な関係からなる集団である。
そこでは家族や親友のように、互いに気心が知れ合って、遠慮や気兼ねをあまり必要としない。
これに対して無関係集団とは、自他分離的な関係からなる集団である。
対人恐怖症患者はきまりきったルールにしたがって行動すればそれ以外の気配りは無用であり、これまた気楽な面がある。
このどちらでもない対人関係、つまり中間状況においては、自他合体的志向と自他分離的志向の相矛盾した態度が同時に働き、対人恐怖症患者はどちらの態度をとっていいのかと、この二面のあいだをふりまわされて困惑しがちとなるからだ。
対人恐怖症患者がこのようにふりまわされるのは、そのうちの一方を志向しても、もう一方をへの志向が、鳥もちのような粘着力で付着しているからに他ならない。
中間集団の他人に対して家族や親友に対するように振る舞おうとしても、そこに付着している個別分離的な自己を意識せざるをえないであろう。
逆にまた、見知らぬ人に対するように振る舞おうとしても、付着してはなれない自他合体的志向が意識され、そのように振舞う自分を見ている他人に関心や配慮をむけざるをえなくなる。
平たく言えば、対人恐怖症患者は中間状況では、なれなれしく振る舞うのも不自然だし、かといってそっけない態度をとるのも似つかわしくなく、両方のかねあいが難しいということである。
対人恐怖症では、両者のあいだを振り回されるうちに、自意識と他意識は同時に過剰なまでに肥大する。
自他分離的志向、自他合体的志向は、それぞれ我執性、没我性といいかえることもできる。
人は誰でも、自分に誇りをもって生きている。
誰もが、人より優れたい、すべてを自分の思う通りにしたい、と思う心を持っているはずである。
自分はプライドのひとかけらももてないと思っている人でも、プライドを持ちたいと願っているに違いない。
自己への愛は実に根深いものである。
そのような自尊心、自己への執着心を我執性という。
だが人は、我執性にのみ自足できるであろうか。
人は、他人を愛し、他人と心を通じ合えればと願う心を持たないではいられない。
人を愛するには、そのいきつくところ、自分はどうであれ、まずその人の幸せを願うはずだ。
それを没我性という。
これまた根深い心性である。
※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著