●自意識過剰は疲れるだけ・・・

”過度の緊張の連続がもたらしたもの”

自意識過剰な人がいる。

自意識過剰な対人恐怖症の人は自分がこの席に座ったら”厚かましい人間”と思われやしないかと悩む。

自意識過剰な対人恐怖症の人はあまりよく知らない人と出会って、どう挨拶したらよいかと迷う。

自意識過剰な人は知らん顔をしたら、嫌っていると誤解されやしないか、かといって、どんな言葉で挨拶したらよいのかわからない。

自意識過剰な人とは、ひとつひとつの自分の言動を過剰に意識する人である。

ところでなぜ、自意識過剰な対人恐怖症の人は、こんなにも自分の一つ一つの言動をこれほどまでに意識するのであろうか。

おそらく、自意識過剰な対人恐怖症の人は、幼児期から少年少女時代まで、その人の言動のひとつひとつで大きく揺れ動くような人が周りにいたに違いない。

自意識過剰な対人恐怖症の人の親がそういう人だったに違いない。

自意識過剰な対人恐怖症の人は親が笑って欲しいと期待する時に笑わないと、親は面白くなかった。

子どもにとって、親の拒絶ほど恐ろしいものはない。

自意識過剰な人は親といる時、おそらく気が抜けなかったのではなかろうか。

自意識過剰な対人恐怖症の人は自分の何気ない笑顔が、親に大きな喜びをもたらしたこともあったろう。

しかし自意識過剰な人は逆にぼさーっとしていたことで、親に不機嫌をもたらしたこともあったろう。

自意識過剰な対人恐怖症の人は、少年の日、夕食のあとで、父親が際限もなく上司や取引先をののしったり、母親が近所の人の悪口を言っていた。

そんな時自意識過剰な対人恐怖症の人は相づちの打ち方ひとつで、父親は怒ったり喜んだりした。

自分のひとつひとつの言動が周囲に大きな反応を呼び起こすことで、子どもは親といる時、過度の緊張をしていたにちがいない。

自意識過剰な対人恐怖症の人の親は、子どもを意のままに動かすことで、欲求不満を解消していた。「あんな奴くだらない」と欲求不満からいえば、子どもは、その通りだという顔をして見せる。

それを見て、親は満足する。

そんな欲求不満な親は、子どもが少しでも自分の意のままに動かないと、不機嫌になった。

子どもを意のままに動かすことで欲求不満をはらそうとする親との応対のために、子どもは神経をすり減らす。

自意識過剰な対人恐怖症の人はそのような時代を過ごすことで、子どもは自分の一つ一つの言動に、過剰な神経を遣うようになる。

自意識過剰な対人恐怖症の人は朝起きた時の自分の態度ひとつで、親の機嫌がよくなったり悪くなったりした。

自意識過剰な人はそんな少年少女時代を過ごして成人したら、やはり道で知り合いに会った時、どんな挨拶をしたらよいかと気を遣う。

自意識過剰な人はどんな表情で挨拶したらよいのかととまどう。
それは当然ではなかろうか。

それは幼い日、父親の帰宅の時に、どんな表情で迎えるかが大きな反応を生んだ経験からきているのであろう。

自意識過剰な対人恐怖症の人は親が期待した表情で出迎えた時と、そうでない時の大きな違いをよく知っている。

だからこそ、自意識過剰な対人恐怖症の人は道で知り合いに会って、どういう表情をしてよいか分からず、ついつい眼をそらして通り過ぎてしまい、あとで”嫌な奴”と思われやしないかと悩んだりするような人間になるのではないだろうか。

自意識過剰な対人恐怖症の人は会議の時に、指名されたらどうしようと、いつも内心ビクビクしているというのも同じであろう。

おそらく、夕食の時、会話の仕方一つで親が怒り出し、テーブルがひっくり返ったような体験を持つ者が成長し、社会人になっても、返事の仕方ひとつに、失敗しはしないかとヒヤヒヤするのではなかろうか。

自意識過剰な対人恐怖症の人は幼い日の緊張の連続が、社会人になって、会議の時の緊張の連続につながっていくのではないだろうか。

自意識過剰な人は、会議で指名されたらどうしようかとビクビクしているひとである。

※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著