”弱点を隠さなくてすむ安心感”

「自分を嫌うな」という対人恐怖症の克服に役立つベストセラーの本がある。
ところが実はもともと、自分で自分を嫌いな人などいないのである。

自分を嫌ったのは決して自分ではない。

親なのである。

もっと能力があれば、もっと美人であったらと、こう言う弱点が無ければとはじめに自分に期待したのは、親なのである。

そして、その現実の自分を嫌った親を内面化したから、その人は自分で自分を嫌いに、対人恐怖症になってしまったのである。

だとすれば、自分を好きになるためには、内面化してしまった親を、自分の中から叩き出すしかない。
内面化した親を叩き出せれば、あまり美しくなくても、ありのままの自分の顔を素直に受け入れられるようになる。

自分との関係が上手くいく人が、無理することなく他人と上手くいく人なのである。

自分で自分を受け容れられない対人恐怖症の人は、周囲の人からできないことばかり要求されてきたのである。
そして、その要求をかなえなければ愛してやらないと脅迫されてきたのである。

自分に不可能なことを要求したのは誰か、そして脅迫したのは誰か。
その人への心理的依存から脱出することができれば、駆け足の遅い自分を受け容れられるし、記憶力の悪い自分に劣等感をもつこともない。
そして、そのような自信を得た時、本来自分に備わっている能力は存分に開花する。

自分にできないことをするように要求され、しかもその要求にこたえなければ拒否すると脅迫された人は、自分の弱点を他人に対して隠す。
そして、対人恐怖症になる。

しかし、考えてみてほしい。本当の愛とはいったい何であろうか。

だれにでも弱点はある。
その弱点を、相手に自由にさらけ出せる気楽さを感じること、それがあいされているということではなかろうか。
相手に対して、自分の弱点をさらけ出す必要のない安心感、これがほんとうの愛の雰囲気であろう。

そのリラックスがあればこそ、人は活力を得て自由に振舞える。
これが無心とか無我とか無念無想に通じていくものではなかろうか。

自分の弱点を隠して、対人恐怖症になって、できるだけ良い印象を他人に与えようとしたら、疲れるに決まっている。
弱点を見せても大丈夫という強迫感の欠如、警戒心の欠如、これが愛の雰囲気であろう。

この愛の雰囲気のなかで育ったものは、他人と会って圧迫されるような緊張感、対人恐怖症はないであろう。

※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著