”誰の犠牲になったのかをハッキリさせる”

神経質ですぐに対人緊張し、ストレスで疲れてしまう対人恐怖症の人は、まず、じぶんはだれの投射の犠牲になったのかをはっきりさせることである。

投射とは先に述べたように、自分の中にある認めがたい感情を誰か他人が持っていると見なすことである。

たとえば、過度に疑い深い親に育てられた子どもは、当然健全に育つわけがない。
自分の中に疑う気持ちがないのに、お前は疑い深いと非難されてしまうからである。
親が子どもを疑っているのに、親は子どもが自分を疑っていると見なす。
そして、罪のない子どもを疑い深いと非難するのである。

この世の中には、疑い深い親に育てられた為に、いつも自分の言動は他人に疑われていると感じている対人恐怖症の人がいる。
対人恐怖症の人は他人は決してその人に不信感などもっていないのに、不信感をもたれていると感じてしまうのである。

自分の言うことは信じてもらえない、そう感じている不幸な人は多い。
そのような対人恐怖症の人はとにかく、自分は信じられている、自分は信じられていると、心の中で常にいいきかせながら、疑い深い親から心理的に独立することである。

疑い深い対人恐怖症の親に育てられるのも問題であるが、心の底で自分は卑怯だと、自分に失望している対人恐怖症の親に育てられるのも問題である。

対人恐怖症の親は、心の底の底では自分は卑怯な人間であると感じている。
しかしその自分についての感じ方を抑圧する。
そして、その感じ方を他人に投射する。

対人恐怖症者は他人を「卑怯だぞ」と非難することが、自分にとって一時的な救いになるのである。

会社で上役にむかって「卑怯だ」と責めることはできない。そこで、心の葛藤を一時的に解消するのに、子どもは格好のえじきとなる。

子どものほんのちょっとした言動を捉えては、「卑怯だ」と非難することになる。
人間の感情として自然なものまで「卑怯だ、卑怯だ」と非難する。

そのうちに子どもは、自分の自然の感情を受け容れられなくなる。
つまり、自分で自分を受け容れられなくなる。

子どもは完全主義になる。
自分にスーパーマンであることを期待することになる。

そして、スーパーマンと実際の自分とを比較して、激しい劣等感をもつ対人恐怖症になる。

自分に対する、自分の正しい期待、それが健全な成長に大切なことであるのに、親の投射の犠牲になった子どもは、それができなくて、激しい劣等感の対人恐怖症に悩むことになる。

世の中には、出世しながらも激しい劣等感をもっている人もいれば、人並みにとどまっていても劣等感を持たない人もいる。
それはその人を育てた親の資質のちがいなのであろう。

※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著