”なぜ、自然の感情を否定するのか”

何かで怖いという気持ちになった時、その怖いという気持ちを表現するなら、「意気地がないねえ」と父親からさげすまれた子供を考えてみればわかる。
当事者自身、先の中に出てくる、ジャンプ台でのエピソードを読んで思い出したことがある。
(参照)

私自身も、たいへん神経質な人間であった。

小学校に入学する前のことであった。
当事者は家の屋根の上にあがっていた。
すると、それを下から見ていた親父と兄が、「そこから飛び降りてみろ」と命令した。

私はおじけづいた。
その時、下から親父と兄が「意気地なし!」と怒鳴った。
それでも怖がっていると、「猫だって飛び降りられるぞ」と、今度は笑いを浮かべてからかわれた。

私は、とにかく飛び降りた。
以来、同じような経験をするうちに、自分を意気地なしだと責めるようになったし、いつも大胆に、気持ちを大きくと自分に言いきかせるようになった。

”こわい”という感情をもつのが当たり前の時でも、私はその感情と戦い、それを克服しなければと焦った。

その怖いという自然の感情を認めることは、そのまま、自分が臆病でダメな男だと認めることであったからである。
そこで私は、自然の感情を否定し、常にそれと戦わねばならなかった。

そんな私にとって森田療法の”あるがまま”というのはよくわかる。と同時に、そうなれないのが神経質な人間ではないか、という気がしてならない。
つまり、幼児の頃から、あるがままであることを禁止されて育った人間が神経質者なのである。

私は小さい頃、兄から二つのことを教えられた。一に大胆、二に従順である。
大胆でないのは男ではないと言われた。
したがって、
屋根の上からでも、木の上からでも、怖いと思わず飛び降りなければならなかったのである。

おそらく兄は、親父からの圧力を弟の私に向けて発散していたのであろう。
とにかく私は、あらゆる点で、こわいという自然の感情を許されないで育った。

おとなになってみれば、もはや他人が許さないのではなく、自分が自分の自然の感情を許せなくなっているのである。

内面から常に大胆であれ、気持ちを大きくもてとせきたてられつづけた結果、自分で自分を受け容れられなくなってしまったのである。

”あるがまま”も正しい教えではあるが、同時にはっきりと知らねばならないことがある。
それは、”あるがまま”の自然の感情を許さなかった人間からの、心理的離乳の必要である。

”あるがまま”の感情を許さなかった人間に心理的に依存しながら、どんなに対人恐怖症をなおそうとして、”あるがまま”でよいと自分にいいつづけてもなおらない。

対人恐怖症の人は相変わらず、内面から気持ちを大きくもてとか、大胆になれとかせきたてられる。
そして、他人に会うと緊張して疲れるのである。
相変わらずの対人恐怖症である。

※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著