ある晩のこと、主人の客が訪れお茶を出すときに、手が震えてお茶をこぼしてしまいました。

これが気になって、次にビールを注ぐときにも、コップに瓶がカチカチとあたるくらいに手が震えました。

私は元来神経質で、対人恐怖症を抱えていると思われます。

いまでは、来客があっても主人に「病気だからといって」と頼み、お茶を出してもらっています。


たしかに相談者は、「また手が震えるのでは」と気にすることにおいては対人恐怖症の典型であるといえます。

ところが、夫の友人をもてなすという行動に関しては、まったく無神経です。

この場合の対人恐怖症の相談者の心には、「ノドをしめしてもらおう」「喜んでもらおう」「いい奥さんをもったと客にいってもらい、夫の立場をよくしよう」という神経は、まるではたらいていないからです。

ひと口にいうと、対人恐怖症の相談者は、本来なら神経質であらねばならないところに無神経で、無神経であってよいところに神経質なのです。

円満な家庭をつくるためには、少なくともこの原則をふまえていなければならないのに、対人恐怖症の相談者のようにひっくり返して、あるいはとっちがえて考える人がじつに多いのです。

その意味において、「神経質であればあるほどよい」は、一見パラドックス(逆説)のようにみえながら、そのじつパラドックスではないのです。

このようなタイプの人がほんとうに神経質なら、四方八方のことをいろいろと考えるはずです。

「自分が夫の客に茶も出さないのは、なんのかんのといっても弁解できないことなのではないか」という考えをもつのが当然でしょう。

ところが対人恐怖症に陥る人は、けっしてこのようには考えてくれません。

自分がどう思われるかという事だけ考えるのです。

しかし、対人恐怖症に陥るような人は、極めて神経が細かくデリケートな人で、その繊細さが自己のみに向けられていることゆえに問題なのです。

そうした自分に向かう注意を、今を大切に、一つ一つの行動に精を尽くすことで外に向け、自分の外に向かってまんべんなく配慮できるようになれば、本来もっている心のデリケートさゆえに、たいへん人に好かれる、心づかいの細やかな人間になっていくのは理の当然でしょう。

こうした意味で、現に自分は対人恐怖症だと思い、クヨクヨする性格に悩んでいる人がいるなら、あえて「対人恐怖症だからこそよいのだ」と言いたいのです。

※参考文献:森田療法入門 長谷川和夫著