課内会議に出席しても、ろくに自分の意見が発表できません。
会議が終了してから、いつも襲ってくるのは劣等感です。
おれはダメだな、他の連中はどんどん手をあげて、素晴らしいアイデアを説得力豊かに発言しているのに、どうしてだろうと考えこんでしまうのです。
森田療法では、劣等感も「あるがままに」受け入れ、消去しようなどと思わないことを教えます。
なにも「心の病」に陥った人でなくとも、私達すべての人間は、なんらかの劣等感をもっているものです。
自分よりすぐれた面を持っている人に対して、「ああ、おれはダメだな」とある特別の意識をいだくことは、だれもが経験することでしょう。
こうした気持ちに「とらわれ」たり、克服しようとすれば、それは「心の病」への入口になってしまいます。
あなたが、職場の会議でろくに自分の意見もいえないという劣等感にさいなまれているとしたら、まず絶対に会議という場から逃げないことです。
とにかく出席して、何もいえなくとも、最初は他人の意見に相づちを打つことから始めればよいのです。
劣等感をもちながら、参加するという姿勢を続けることで、やがてはそんな劣等感を意識すること自体が消え失せてしまうでしょう。
精神科医は、劣等感という言葉について、ある意味ではたいへんなれっこになっています。
対人恐怖症の患者さんがさかんに使うからです。
「私はすごく劣等感が強くて困るんですよ」
対人恐怖症の患者さんは、特にこの傾向が強いようです。
要するに、自分に対する欲求水準が高いので、すぐに他人と自分を比較したがるのです。
ごく単純なところで、よくしゃべる人を見ただけで、「ああ、おれはダメだ」と、劣等的な差別意識のとりこになってしまいます。
しかし、対人恐怖症の彼らの場合、客観的にみれば、能力そのものは、通常の人達より劣っているわけではありません。
ただ、自分の欲求水準と現実の自分にギャップを感じすぎるのです。
そこから葛藤が生まれます。
そして、葛藤にかまけているだけで、ギャップを埋めようとする努力を放棄してしまうわけです。
対人恐怖症の彼らはつねに劣等感を取り除かないと何もできない、劣等感をなきものにしなければと考えるのです。
このことで、彼の注意はますます劣等感に集中されていき、ますますダメになっていくのです。
劣等感というとよく引き合いに出されるのはナポレオンです。
コルシカ生まれのナポレオンは「ラ・マルセイエーズ」を歌うフランス市民からみれば、純粋なフランス人ではありませんでした。
強いイタリア訛りのフランス語を話す、このコルシカ生まれの少年は、みずぼらしい風貌もあいまって、「フランス本国」の生活で、ことあるごとに劣等感をいだかされたことは、容易に想像できます。
天才と狂人は紙一重といわれます。
ナポレオンの場合が、まさにこの紙一重だったわけです。
彼の劣等感がネガティブな形で内に向かえば、これはもう完全な対人恐怖症患者になります。
また、たとえ外に向かって、ポジティブな作用をしたとしても、ひとたび方向を間違えれば、狂人にも似た状態に陥るのです。
ナポレオンは、劣等感を踏み台にして、自分自身が「フランスになる」ことに成功したからこそ、天才たりえたのです。
コルシカ生まれという劣等感を解消するのに、これほど確実な方法はなかったはずです。
同じようなことは独裁者ヒトラーや、スターリンについてもよく指摘されるところです。
ヒトラーの、有名校を出ていないというコンプレックス、オーストリア人としてのコンプレックスが、ユダヤ人を極端に憎むという態度に現れ、スターリンが非情なまでの専制政治を敷き、トロツキーをはじめとする政敵の大粛清を行った裏には、やはり自分の出生への劣等コンプレックスがあったのです。
もちろん、彼らの行ったことは道徳的に好ましいとは思いませんが、外国に限らず日本人にも、そのコンプレックスゆえ大成したといわれる人達は数限りなく存在しています。
貧困と大やけどをバネに猛勉強をした野口英世博士は、その代表といってもよいでしょう。
人間はそういう劣等感があるからこそ努力するのだと、劣等感のポジティブな面を強調する考え方もありますし、個人心理学の創設者アドラーは、劣等感があるからこそ文明は進歩するのだ、とまで主張しています。
森田療法の精神―「あるがまま」も、劣等感から逃げずに、それを一つのエネルギーとして外に向けることを心がけるといい換えて構わないでしょう。
対人恐怖症に陥った人でも、それだけ自分に高い欲求を課すぐらいですから、もともと能力はあるわけで、病気さえ治れば、バリバリ働くことができます。
病院へ入院した対人恐怖症患者で、病気中の苦しい体験を生かし、退院してから大成功した人も少なくありません。
「あるがまま」ということを、おもに不安や劣等感でみてきましたが、これを推し進めていけば、「自分の弱気な性格を強気の性格に変えたい」などという気持ちをもつこと自体が、誤りということになります。
森田療法では、性格は先天的なもので変わらないとする宿命論ではなく、一時的に変化しない性格の部分を認めると同時に変化する部分も認めているのです。
つまり、不安や恐れ、劣等感とともに生き、現実に即して行動していけば、性格もおのずと変化していくということです。
対人恐怖症の人は弱気な自分を嘆く前に、弱気なままでまず行動してみるべきでしょう。
森田博士は、「自然に従順であれ、環境や境遇に素直に従え」と繰り返し述べています。
これは、「長いものには巻かれろ」とか「強い者には負けろ」という意味でなく、事態を正しく把握認識し、そこから出発しろということなのです。
あるがままの生活とは、どんな事態でも「逃げない心」を持って生活するということにほかなりません。
こういう「素直に従う」姿勢が単なる開き直りと違うということは、おのずから明らかでしょう。
開き直りとは、「どうでもよい」という放棄にほかなりません。
たとえば本を読んでいる最中に雑念が起こって集中できなくなったとき、周りのことが気になって本が読めなくなる、無理に集中しようとか雑念を払おうとすると、ますます読めなくなり、自分はだめだ、仕事ができないと考えてしまうのです。
この場合、開き直りなら、ああ雑念が起こっているのだから読んでもしかたがない、と本を放り投げてしまうでしょう。
「あるがまま」なら、雑念は起こってもそのまま本を読むことに努力する。
鉛筆で線を引くなり、工夫をして体に集中しようとします。
なぜなら、本を読むことが当面の目的であり、雑念を払うことに力を集中するのは、手段のみを重視することになるからです。
※参考文献:森田療法入門 長谷川和夫著