いままで経理部にいましたが、このたびの人事異動で営業部に異動になりました。

経理部はあまり口をきかなくともなんとかやっていける仕事ですが、口下手で交際下手な人間の私がうまくやっていけるのか・・・。

だいいち、営業部ではひんぱんに会議があって不安でなりません。


人間は偉大です。

しかし、悠久の万物と比べるとき、あわれでちっぽけな存在にすぎません。

自然こそは偉大です。

けれども、あわれでちっぽけな人間によって滅ぼされる存在であるともいえます。

では宇宙こそは不動です。

ところが、宇宙といえども、生まれたり死んだりすることが証明されています。

証明したのはちっぽけな人間です。

すると、やはり人間が偉大なのかというと、人間とは、一人では生活できないという点、泡のような存在だともいえます。

―このように考えていくと、この世には絶対不滅(不動)の真理や存在などなく、万物は相対的な関係にあることがよくわかります。

森田博士は、よく「煩悩即解脱」「不安即安心」といっていましたが、一見矛盾しているかに思えるこれらの言葉も、「万物は相対関係にある」という立場で考えれば容易にうなずけるのです。

いうまでもなく、万物は流動しています。

鴨長明は「とどまりたるためしなし」と喝破したし、釈迦は万物流転と教えました。

「相対」という言葉を辞書で引くと、哲学用語として、「他との関係においてあること」とあります。

人間を考えてみても、まさにそうではありませんか。

万物が流動しているならば、その関係においてある「ちっぽけな人間」も、当然流動しているのです。

―であるなら、本来人間には固定した生き方、考え方などありえないはずです。

機に臨んで変に応ず―すなわち臨機応変こそ本来の生き方なのです。

森田療法が臨機応変の実行を重んじたことについて、森田博士自身、次のようにいっています。

「およそわれわれは、境遇すなわちふりかかる運命に対して―たとえば地震とか、大掃除とか、試験勉強とか、さては忙しいとき、閑散なときなど、おのおのそのときと場合に応じて大体の要領を得ること、精密に処理することなど、つねに臨機応変でなくてはならない。

このようにつねにあらゆる運命に順応して、緩急、粗密、おのおのその時、その場に適してゆくことを私は『余裕がある』と称している・・・」

臨機応変の精神は、すべてここに表現されているといえましょう。

対人恐怖症の相談者がこんなとき、とるべき道はただ一つです。

それは、営業にいったら、営業に合わせた自己をつくり上げることです。

つまり、交際下手や口下手と決めてかからず、臨機応変に自己を対応させていくことなのです。

いうまでもなく、会議はそのときそのときによって、明確な目的をもっています。

対人恐怖症でも、幸いあなたは数字に明るいという、他の人にはない貴重な特性をもっているのですから、目的を成就させるために、自分の特性をどう生かすかということを考え、それに沿って発言すべきなのです。

会議が目的としているのは、対人恐怖症であろうが口下手であるとか交際べたとかいうことではなく、指針や方策なのですから、もしも自分が口下手で内気な人間であっても、少しも構わないはずだとあなたは考えるべきなのです。

固定観念を後生大事にもっていたのでは、その場その場に応じた臨機応変の処置は決してとれません。

人間が遭遇するあらゆる現象は、くるくると目まぐるしく変化しており、人間自身も喜怒哀楽の感情に流されています。

この点を認識しているならば、いつも同じ気分、同じ対応をすることが明らかな誤りであることに気づくはずです。

孔子の「君子は豹変す」は、ときによって「ずるく立場を変える」と曲解されていますが、元来の意味は、「ものにこだわらず、善に向かって自分を変えてゆく」ということなのです。

対人恐怖症の人は自分に対して「こうなのだ」とこだわりをもたず、自分の個性を認識し、置かれている立場を認識し、流動的ななかで生かしていくことが森田療法の原則だといえるでしょう。

※参考文献:森田療法入門 長谷川和夫著