赤面症
ここからは対人恐怖症の<身体反応>のなかでも、とくに深刻に悩んでいる人が多いと思われる<赤面症>と<赤面恐怖>について説明しておこう。
まずは<赤面症>について。
人前で赤面してしまうと、顔の変化のことだけに周りの人に気付かれやすく、悩みも人一倍大きくなるだろう。
最初に、フランスのジャーナリストであり作家でもあるクロード・ロワが書いた、『おくびょうな、かなしいロバ』という子ども向けの詩の一節を紹介する。
「ぼくは人から見られるのがきらいだ。
すごくもじもじしてしまう。
人から見られるとぼくは真っ赤になる。
上手に口がきけなくなって、動作もぎこちなくなる。
<赤面症>とは、「他人に見られる」という状況に置かれた時に、不安や緊張のせいで顔が赤くなってしまうことを言う。
では、どうして<赤面症>になってしまうのだろう?
その理由は次のように考えられている。
私達は皆誰でも、他人からぶしつけな視線で見られることに<恥ずかしさ>を感じるものだ。
これはおそらく、私達人間の本能的な反応である。
つまり、私達は他人の視線を感じると、心の中に秘めている考えや感情を見透かされるような気がして、<恥ずかしさ>を感じる。
そして、そういう「恥ずかしい」という気持ちから、顔が真っ赤になってしまうのだ。
しかし、こうした<恥ずかしさ>をどの程度感じるかは、文化的な背景によってかなり差があると考えられている。
たとえば、日本人は他の国の人達に比べて、他人から見られるのを恥ずかしがる傾向が強い。
したがって、<赤面症>も多いとされている。
だが、この点についてはまた後ほど触れることにしよう。
アメリカの劇作家テネシー・ウィリアムズは、『回想録』のなかで、この種の悩みについて次のように書き記している。
「私は、他人の視線を感じるだけで赤面するようになってしまったあの日のことを、今でもはっきりと覚えている。
あれは、忘れもしない、幾何学の授業中に起こったことだった。
通路を挟んだ向こうの席にふと目をやると、栗色の髪をした可愛い女の子がじっと私のほうを見つめていた。
その瞬間、私は自分の顔が赤面していくのが分かった。
次に彼女と目が合うと、私はさらに赤面した。
私は心の中で叫んだ。「ああ、どうしよう!もしも、彼女に限らず、誰かと目が合うたびにこんなふうに顔が赤面してしまったら!?」
そんな悪夢のような状況を想像していたら、なんと、それが現実のものになってしまったのだ。
それ以来、何年もの間ずっと、私は誰かと目が合うたびに必ず顔が赤面するようになってしまった。」
また、ある女性は、<赤面症>のきっかけとなったある出来事について、次のように語っている。
「人から見られていると思うと、すぐに顔が赤面してしまうのよ。
実は、こんなふうになってしまったのには、きっかけがあるの。
ええ、今でもはっきり覚えてるわ。
あれは、私が小学生だった頃、クラスメートの服のポケットからお金が盗まれてしまったの。
それを知った担任の先生はかんかんに怒って、クラス全員を集めると、いきなり犯人探しを始めたのよ。
もちろん、私にはやましいところはなかったわ。
なのに、先生が疑いの目で私の方を見ていると思うと、だんだんと自分の顔が赤面していくのがわかったの。
「嫌だわ、赤くなったりしたら、まるで私が犯人みたいじゃないの・・・。」
そう思えば思うほど、ますます顔が真っ赤になっていったわ。
幸いにも、顔が赤くなったからといって、先生は私を犯人扱いしたりはしなかった。
でも赤面していった私に気付いたクラスメートたちからは、それ以来、「泥棒女」っていうあだ名をつけられてしまったのよ。
赤面恐怖
続いて、<赤面恐怖>について説明していこう。
まず、<赤面恐怖>とは何か。
「他人に見られる」という状況に置かれると必ず顔が赤面する、つまり<赤面症>になってしまうと、今度は、「他人に見られる」ことを想像しただけで顔が赤面してしまうことがある。
あるいは、「また顔が赤面するのではないか」と過剰なまでに不安を感じ、そのような状況に置かれること自体に恐怖心を抱くようになってしまう。
これが<赤面恐怖>である。
なお、<赤面症>と<赤面恐怖>の違いや関係性については次のとおりです。
赤面症、それとも赤面恐怖?
本サイトで取り上げている<赤面症>と<赤面恐怖>について、その違いがあまりよくわからないという人も少なくないと思う。
そんな人の為に、ここでまとめてきちんと説明しておこう。
い
簡単に言うと、人から見られるという特定の状況において、必ず顔が赤面してしまうのが<赤面症>だ。
そして、そのような状況で過去に一度でも顔が赤面したことのある人が、「また赤面するのではないか」と不安を感じ、そういう状況そのものに恐怖心を抱くようになるのが<赤面恐怖>である。
まずは、この違いをしっかり認識しておいてほしい。
では、ふたつの症状の関係性はどうだろう?<赤面症>の人は<赤面恐怖>を必ず併発してしまうのだろうか?
答えは「いいえ」である。
<赤面症>の人の多くは<赤面恐怖>ではない。
すぐに顔が赤面してしまうことに恥ずかしさや腹立たしさを感じることはあっても、だからといって、必ずしもそのことに恐怖心を抱いてしまうわけではないのである。
だが逆に、<赤面恐怖>の人は、その恐怖のせいで<赤面症>が悪化してしまう場合が少なくない。
こういう人は、顔が赤面することに日頃から強い不安を感じている。
つまり、最初から「また顔が赤面するのではないか」と疑ってかかっているため、たいしたことではなくても顔が赤面してしまうのだ。
また、誰かと話をしている時にたまたま顔が赤面してしまうと、そのことばかりに気を取られて会話に身が入らなくなり、ますます不安感が強くなっていく。
つまり、悪循環にはまってしまうのである。
こういう悪循環のせいで<赤面恐怖>の治療には長い時間がかかる。
先ほど<赤面症>のところで紹介した「泥棒女」というあだ名をつけられてしまった女性は、こう言っている。
「今、いちばん困っているのは、とくに理由もないのに顔が赤面してしまうこと。
たとえば、私が通りかかった時にたまたまそこにいた人達が黙りこんでしまったり、誰かが意味ありげに目配せしたりしただけで、みるみるうちに顔が赤面してしまうのよ。「偶然そうなっただけで、きっと私には関係のないことだわ」とわかっているくせに・・・。しかも、「赤面したりしてはいけない」と自分に言い聞かせればするほど、ますます赤面してしまうのよ。
<赤面恐怖>の人がもっとも怖れていること、それは、顔が赤面しているのを周囲の人に気付かれてしまうことだ。
そういう人たちは、「他人の前で赤面するなんて、どうしようもなく恥ずかしいことだし、社会的な信用を失ってしまいかねない」と信じ込み、深刻に悩んでいる。
だからこそ彼らは、「赤面警報」(顔が赤くなる前触れ)が突然発令されてしまうのを怖れ、人前で赤面してしまうのをどうにかして避けようとするのだ。
<赤面恐怖>に悩むある男性はこう言っている。
「人前にしゃしゃりでたり、反論なんかしたりして顔が赤面するリスクを背負うよりは、黙っていたり、無能なふりをしたりした方がずっとましだ」。
赤面恐怖の歴史
<赤面恐怖>はいったいいつ頃から存在していたのだろう?
実は、古代ギリシャの高名な医学者であるヒポクラテスの著作に、すでにそれらしき記述を見出すことができる。
《その男は、明るい場所が苦手なようで、できることなら暗闇で行きたいと思っているらしい。
何も悪いことをしているわけでもないのに、いつも帽子で顔を隠しているため、誰かを見ることも見られることもないのだ》。
ただし、ここでヒポクラテスは、顔が赤くなることの<恐怖心>について直接語っているわけではない。
明るい場所を避ける、帽子で顔を隠すといった<赤面恐怖>らしき人物の<不自然な行動>について述べるにとどまっている。
<赤面恐怖>が病気として認識されるようになったのは、ヒポクラテスの時代からずっと後の、19世紀に入ってからである。
1864年、ベルリンの医師キャスパーによって初めてその存在が確認された後、フランスでピートルやレジによって本格的な研究が行われるようになった。
前述したフランス人精神科医ピエール・ジャネが、著作『神経質』で<赤面恐怖>について触れているので、その一部を抜粋して紹介しよう。
百年も前に書かれたとは思えないほど、<赤面恐怖>の本質をしっかりととらえた文章である。
《赤面恐怖の患者は、誰かの視線、とくに異性の視線を感じると、顔が赤面するのではないかという不安に襲われ、恥かしさゆえに本当に赤面してしまう。
どんなに赤くなるまいと努力しても無駄なのだ。
それでも最初のうちは、意志の力で赤面するのを少しは防ぐことができる。
しかし、やがては恐れていた通りに真っ赤になってしまうのだ・・・[中略]。
その結果、もともとは積極的で社交的な性格であったのに、どうしようもなく内気で人見知りな人間になってしまう。
これでは普段の人付き合いはもちろんのこと、仕事上の対人関係もうまくいかなくなる。
こうして彼は、このつまらない障害のせいで、人生をだいなしにしてしまうのである》
このコラムのような、ヒポクラテスの描いた<赤面恐怖>の人が、顔色が判別できるような明るい場所を避けたり、大きな帽子で顔を隠したりするのも、まさにこういう理由からなのだ。
同様にして、顔が赤面しても気づかれないように、わざと厚化粧をしている女性も少なくない。
ある女性は次のように語っている。
「わたしにとって絶対に欠かすことのできない必需品、それは、ハンカチやティッシュペーパーなの。
顔が赤面しそうになったら、くしゃみがでそうなふりをして思いきり鼻をかむのよ。
だって、鼻をかんだ後で顔が赤くなるのは普通のことでしょ?
誰も変だとは思わないわ。
赤面症だと気づかれてしまうくらいなら、「いつも風邪ばかりひいている女」と思われているほうがずっとましだもの。
他に、美容院へ行くのが苦手だという<赤面恐怖>の人も多い。
「美容師や他のお客さんに見られているかもしれない」と不安に思いながら椅子に腰かけ、そっと目の前の鏡を見る。
ああ、やっぱり顔が赤面している・・・。
鏡の中の自分を見ながら、「こんなに赤くなってはいけない」と自らに言い聞かせて、さらにまた赤面してゆく・・・。
これでは、美容院が嫌になるのもしかたのないことだ。
また、赤面は、他人からかららわれる原因になったり、ひどい場合は、先ほどの事例にもあったようにやってもいない行為を疑われてしまいかねない。
子どもの頃、級友から「やーい、赤くなった、赤くなった!」とからかわれたせいで、顔が赤くなることを怖れるようになったという人も少なくないだろう。
最後に<赤面恐怖>の主な特徴をまとめておこう。
それは全部で四つある。
1・「他人に見られる」ことに関係している状況において、すぐに顔が赤面してしまう。
2・自分の意志で赤面を治すことはできず、治そうとすればするほど、ますます赤面してしまう。
3・どうして顔が赤面してしまうのか、何度も繰り返し悩んでしまう。
4・赤面は、ときに理不尽に、不安や恥ずかしさを感じる必要のないところで起きることもある。
このうち、最後の項目についてもう少し詳しく説明しておこう。
<赤面恐怖>の人は、たとえば誰かが悪事をたくらんでいるのを小耳に挟んだだけで、自分には全く関係がないのに、まるで自分が悪いことをしているかのように顔を赤くしてしまったりする。
あるいは、たとえば一人でいる時に、過去に恥ずかしい体験をしたことを思い出したり、恥かしい思いをしそうな場面を前もって想像したりするだけで、なぜか赤面してしまうこともある。
十八世紀の思想家ジャン=ジャック・ルソーは、著書の『告白』のなかで、誰かが嘘をついているのを見かけた時のことを、次のように書き記している。
《彼が嘘八百を並べ立てている間、私は顔を赤面させ、目を伏せ、まるで棘の上にいるような気分だった》。
もし、彼のような人が嘘発見器にかけられてしまったら、大変なことになるはずだ。
きっと、嘘発見器にかけられたこと自体に不安を感じ、不必要に動揺してしまって、やってもいないのに犯人扱いされてしまうだろう。
こうして見て来てもわかるように、<赤面恐怖>は、非常に大きな社会的ハンディキャップをもたらしかねない。
そのため、この苦しみからなんとかして逃れようと、外科手術を受ける決断をする人も少なくない。
こうした<赤面恐怖>を改善する手術のひとつに、「交感神経切除」というものがある。
これは、交感神経を取り除くことによって、感情の高ぶりから生じる自律神経系の症状を緩和しようとする外科手術である。
ところが、この手術に伴うリスクは非常に大きい。
万一、手術が失敗してしまった場合には、医学的・心理的な障害が生じてしまう可能性がある。
しかも、手術を受けたからといって必ずしも完治するとは限らず、現在では少なくとも10%から30%は再発している。
したがって、現時点では、この手の外科手術を受けることはあまりおすすめできない(今後、医学が進歩して別の治療法が見つかれば別だが)。
ある赤面恐怖患者の苦悩
<赤面恐怖>の人は、「顔が赤面すると困る」と思っただけで実際に顔が赤面してしまうので、犯してもいない罪を疑われてしまうことがある。
これはほんとに気の毒のことだ。
20世紀前半の作家ジョルジュ・デュアメルの作品にも、そういうシーンが描かれている。
その作品、社会への不適合に悩むある男の奇妙な行動を描いた連作長編『サラヴァンの生活と冒険』から、一部を抜粋してここに紹介しよう。
《私のそばにいたある人が「傘が盗まれた!」と叫んだ。
それを聞いて、私は取り乱し、顔を赤面させた。
だが、そもそも私は傘をさすのが嫌いで、一度も使ったことなんかないし、ましてや他人の傘に興味など持つはずがない。
なのに私は、いつものようにその場にいちばんふさわしい態度を取ってしまったのだ。
つまり、取り乱して顔を赤面させるという、誰から見ても疑われてしまうような態度を・・・。
私は、何か言い訳をしなくてはと思い、あることないことをまくし立てた。
「傘があることなんか知らなかったな」、「傘が盗まれた時、私はそこにはいなかったよ」などと、しどろもどろになりながら。
そんなことを言っても、ますます疑われるだけなのに・・・
※参考文献:他人がこわい あがり症・内気・社会恐怖の心理学
クリストフ・アンドレ&パトリック・レジュロン著 高野優監訳