1.ヒポコンドリー性基調
同じような体験があって不快感があっても、ある人はその時だけのことで後に残らないが、ある人は神経質症状としていつまでも悩みの種子になるのはなぜであろうか。
森田正馬教授は神経質症状発生の基礎はヒポコンドリー性基調であるといわれたが、ある見解では、この基調は素質と環境の影響でつくられるもので、内向的に傾きやすい人が、何か不安な環境で、自己の身心の現象を自己保存上不利なものであると感じ、そのために自己が外界に順応し得ないという不安な気分の状態である。
たとえば炭火に当たって軽一酸化炭素中毒などで偶然頭が重いと感ずる。
この時ヒポコンドリー性気分の人はこれは脳が悪いためではあるまいか、勉強すれば一層悪化するのではあるまいかなどという不安な体験を持つのである。
これが症状発生の第一段階である。
2.精神交互作用と自己暗示
次に森田正馬教授のいわゆる精神交互作用が起こる。
頭重感に例をとってみると、注意は頭部の感覚に集中され、そのために一層頭重感が明瞭に感じられ、その結果不安はさらに増して注意は一層頭部に集中するということになる。
心臓神経症状などではこの関係は一層著明で、ある不安な連想によって心臓の鼓動を感ずるとこれがさらに不安を増大せしめ、動悸はさらに亢進するのである。
対人恐怖症の場合にも同様で、人前に出て顔のほてる感じがすると、自己の顔面に注意が集中する。
するとほてる感じが一層強く感じられ、同時にそれをきまり悪く思う心が倍加し、そのために一層赤面するすると感じるという具合である。
その他頭内朦朧感、眩暈、耳鳴、胃部のもたれ感、疲労感、記憶不良など身体的方面にも精神的方面においてもこの交互作用は行われるのである。
なお症状固着の原因として重視すべきは自己暗示作用である。
ヒポコンドリー性基調においては不安をきたす諸事情に対してすこぶる推感性が高まり、自己の不快感覚不快感情に自ら暗示されやすく、これによって不安な信念が形成され、患者はその中に閉じ込められて不断に無意識的に自己の症状に注意を向けているという結果になるから、病感は不断に存在するということになるわけである。
3.思想の矛盾と葛藤
毛虫を見て気味悪く思い、花を見て美しく感ずるのは人情の事実であるから、われわれはただ素直に受け入れているから葛藤にもならないわけである。
しかしここに対人恐怖症の例をとってみよう。
人に対して時に不安羞恥を感ずるのは元来自然の人間性で、何ら病的現象ではない。
ことに多人数の前、上長の前、あるいは異性の前で硬くなるとか、気後れするとか、きまり悪く感じることは人間としてありふれた事実である。
しかしかかる感情はけっして愉快ではないから、ある人々はこれを嫌がって、人前で決して心を動かすべきではない、平然としているべきであると念ずるのである。
これがすなわち思想の矛盾である。
「かくあるべし」という思想で「かくある」という事実に挑戦するのである。
事実はどうすることもできない。
それをどうにかしようとすることは叶わぬ戦であり、不可能を可能にしようとする争いであり葛藤である。
この叶わぬ戦の苦しみが対人恐怖症という強迫観念である。
対人恐怖症に限らず他の全ての強迫観念あるいは恐怖症の根本にこの思想の矛盾と葛藤が横たわっているのである。
それで従来の強迫観念の定義に飽き足らず、新しく森田正馬博士の説を取り入れて次のように定義したものがある。
「強迫観念(あるいは恐怖症)とはある機会に何人にも起こり得る心理的あるいは生理的事実を、ヒポコンドリー性基調から、何か病的なこと、異常なこと、あるいは自己保存上不利なこととして不安を感じ、この不安をきたす事情あるいは不安そのものの否定排除もしくはそれより逃れようとして成功し得ない心的葛藤、およびそれに附随する苦悩煩悶の全過程を意味するものである。」
※参考文献:対人恐怖の治し方 森田正馬著