真であれば罪悪ではない

対人恐怖症(涜神恐怖、赤面恐怖)克服記第七信・・・先生の教えに従い、四月一日より、小学校に奉職しております。

はじめは予期不安が頻りに起こって、随分苦しいものでありましたが、先生の「苦痛に直面して、なすべきことをなせ」のお言葉を肝に銘じて、毎日苦しみつつも、なすべき職務をなしております。

しかし職務繁忙のため、および自己の興味、すなわち人に勝ろうとする心の満足を与えるため、また人生に貢献のため、遊んではいないという誇らしい感じのために、時々赤面恐怖をわすれていることがあります。

概して三月まで「こんな自分が、満足に教師として務めを果すことができるか」と、いたずらに煩悶し、予期不安を起こしていた時より、今は、どのくらい、心が安楽であるか知れません。

先生の仰せの体験を、一部分味わい得たのではないでしょうか。

そして先生のご教訓通り、現在では、自分を偽り飾らないように、自分本来の姿に帰ろうと、努力しています。

心に思ったことは、すべて人に打ち明けるようにしています。

そうして「自分の小胆者である」ということを、誰にでも告白します。

しかしまだ「自分は恥ずかしがり屋だ」ということは、どうしてもいい得ません。

なぜでしょうか。

まだ偽りの心があるのでしょうか。

そういうことは、とても苦しいのです。

児童の前にでも、赤面恐怖の起こるに任せて、授業をしています。

そうして、三、四時間目となると、あまり発作も起こらないのです。

自分の心理状態を考えると、先生のご説明がすべて真であることがわかります。

以前、勤めていた時には、恥を感じないように、また隠そうと取り繕ってその方に心が引かれて、教育という方面を打ちやっていましたので、とても騒々しくて、お話になりませんでした。

現在では、取り繕うことをせず、教育に専念していますから、自然、真面目な授業ができ、児童も私に敬服しています。

この辺の消息を考えても、「恥を隠そうとすれば、自然恥を知らない態度になる」とのお教えがよくわかります。

そして「真であれば、罪悪ではない」とのお言葉を、しみじみと実感することができました。

また最近、自分がつくづくと体得しましたことは、人望でも、信用でも、すべてのことが、自分から得るのではない、自然に与えられるものだという事です。

私は、真の人間としての出発点を、先生から教えていただきまして、生まれ変わったつもりで、過去の醜い姿を捨てて、真の自分に帰ろうとしています。

否、着々実行しつつあります。

私の前途には、光明が輝いています。

現在、その光明が認められるようになりました。

その光明への経路を指し示して下さいました有難い、なつかしいお方は、森田先生であります。

涜神恐怖はすっかり根本から、全快してしまいました。

今現在の苦しさから解脱する時は、もうじきであろうと思います。

それまでは、事実ありのままの、恥かしいという境涯に、従順に苦しんでいこうと思います。

私は、先生に対して、どうお礼の言葉を述べてよいかわかりません。

何卒、私の心中における感謝の念、そのものをお受け取り下さい。

※参考文献:対人恐怖の治し方 森田正馬著