君の眼は凄い
対人恐怖症(涜神恐怖、赤面恐怖)克服記第五信・・・過日、先生のご教訓を得まして、私の対人恐怖症も、大分良くなりました。
ただ今、故郷に帰り、十数日遊んでおります。
もちろん赤面恐怖治癒の方法を実行しています。
それゆえ盛んに交際もいたしまして、けっして回避的な独居生活はしていません。
ただ今では、人前に出て、以前のような胸に込み上げるような激しい恐怖は、大変薄らいで参りました。
道を歩くにも、以前には、戦々恐々として、人の視線に出会うと、カッと赤くなり、眼が朦朧として、足もよろめくような心持ちになりましたが、ただ今では、そんなに恐ろしくなくなり、あまり赤くもなりません。
ただ眼がボーっとして、胸が少し苦しいのです。
現在は、道を歩くことは平気ですけれども、人と対座していることが、一番苦しいのです。
相手の人の視線に合致すると、私の眼がにらんだようになり、涙が出ます。
自分の恐怖に充ちた醜い顔を相手に見せて、不快を感じさせることは、罪悪であると思うと、胸が苦しくてたまりません。
けれども、先生の教えが身に沁みていますから、けっして下ばかり見つめるような卑怯なことはせず、ジッと相手の顔を見つめています。
もちろん、この発作とても、以前よりはズットズット軽いものであることは、確かであります。
しかし一友人から(それは、すこぶる快活な人間ですが)「君の眼は凄い。何か悲観しているね」といわれ、また多くの人達から、「君は若いものとしては、元気がない。そんなことでは駄目だ」と言われました。
対人恐怖症の発作が、自分ばかりの錯覚かと思っていたのに、他人にも、こうした自分の発作を見られるかと思うと、ますます苦しくなって、悲観のどん底に落ちているのです。
自分が、このままで、意気地ない元気のないものとして、人から交際もしてくれないようなことになったら、自分の前途は暗黒だと想像して、ますます苦しみにたえられないのであります。
事実、今一人の友もなく、訪問しても、いやな顔をしているようで、私は全く孤独です。
私は、ある本で「耳の不揃いの者は、内心葛藤が絶えず、一生不幸で終わる」ということを読んだことがあります。
私の耳は、右が左よりもズッと小さく、形も違います。
それで、子供の時から恥ずかしがり屋の自分は、この赤面恐怖も、一生治らないのではないかと煩悶します。
そんなら、なぜ、涜神恐怖が治ったかと自問してみますと、これは一時的に起こったものであるし、対人恐怖症は子どもの時からである。
また耳は顔にあるものだから、その不揃いなのが、すなわち対人恐怖症を表現しているのだと勝手な理屈をつけて、一生涯ろくろく交際もせずに、悲惨な不幸に終わるのではないかと、果てしなく悲観せずにはいられません。
たびたび、お手数をかけて相済みませんが、この耳の不揃いということの疑問を早く解決しなければ、自己暗示によって、ますます悪くなるような気がいたします。
次の質問にお答え下さらんことをひとえにお願い申します。
1.耳の不揃いなのが、赤面恐怖の治らぬ証拠ではないでしょうか。
先日のご教訓を実行いたしますれば、ただ今、以前より大分良くなったように、段々と全治するものでしょうか。
2.睨むような眼差しとなっても、人と交際した方が良いでしょうか。
それは罪悪ではないでしょうか。
3.他人から自己の批判をされて、悲観してもよいでしょうか。
煩悶してもかまわないでしょうか。
自分自身に帰れ
対人恐怖症(涜神恐怖、赤面恐怖)克服記第五信へ森田正馬の回答・・・お手紙について、君の生活の態度、心の置きどころをご注意申し上げます。
「盛んに交際いたしまして・・・。」ことさらに、カラ元気をつけて、交際の稽古をするのではない。
必要と自己の欲望とに駆られる結果の行動でなければいけない。
不必要に交際するのでなく、常に自分は、自分本来の小心翼々の態度を失わないように、常に自分の本心から出なければならないのです。
これが、虚偽を去るということで、自分の自然に帰るということです。
「人と対座している時・・・。」人の視線とこちらとの相会う時には、自然の人は、普通何も思わず、必ず眼を他にそらせるものです。
これが普通の場合である。
特に恋人や上長の人に対しては、それはそれは微妙に眼が他にそれるものです。
ただ、目下のものや子供に対しては、割合に静かに見つめることができる。
これに反して、心なき子供、痴ほう、精神病者やは、わけなく人をみつめる。
普通の人では、人を見つめる人は、気位高く自我の強い、傍若無人の変人のみです。
私は、わが子や女中に対しても、その顔を見つめることができず、君らを診察する時でも、容易にその顔を見つめることはなく、多くは伏目で、その人に面と向かいません。
これが私の本来性でそこに私の人に対する畏敬の情と小心さとがあり、人を冷視し、圧倒せぬ態度があります。
私もこれが、自分の持前ですから、強いて人と対抗し、ことさらに強がることはいたさず、自ら独り守っている態度です。
私は、人を平気でみつめるような人は嫌いです。
女などは、特に人を見つめぬようなつつましやかさがなければ、誠にいやなものです。
「自分の醜い顔を相手に見せて、不快を感じさせるのは罪悪である・・・。」これは、自己中心主義の反語もしくは間接の解釈すなわち自己弁護にて、けっして真の利他主義ではなく、見せかけの偽善の言かと存じます。
この流儀の好意とか善とかいうのは、たとえば成金が、自分で威張りたいために金をまき散らして、人に有難いと思わせ、人を自分のおもいのままにしたいと考え、自分の考え通りにならねば、恩しらずといって憤るようなものである。
これは、自己中心主義であって、けっして真の善ではない。
自分が、貧乏、ビッコ、醜男であって、人がこれを不快に思ったといって、それは、自分の罪悪ではない。
色男ぶる時に、初めて罪悪
ただ、金持ちぶり、色男ぶる時に、はじめて罪悪が生まれ、自分の小胆さ、真面目さを、ことさらに大胆に、やりっぱなしのように見せかけようとする時に、はじめて罪悪となるものです。
「けっして下ばかり見つめたりするような卑怯なことはせず、ジッと相手の顔を見つめています。」これは、きわめて下らぬ虚偽で、料簡の間違いである。
いたずらに見つめるのが、大胆ではなく、人を見つめ得ぬくらいに、敬の情に満ち、いたずらに人に対抗せず、自分はただ、自分自身を保持し、自分の出来得ることだけをしていればよい。
自分が卑怯でも痴鈍でも、けっして人に迷惑をかけるものではありません。
「君は眼が凄い」と人にいわれるのは、不自然に人を見つめようとする当然の結果です。
自分は人を見つめ得ぬ小心者であるということを、真面目に真剣に、人に対して告白しなさい。
空威張りしようとすれば、ますます弱く、自分自身のありのままになりきれば、最も強くなるものです。
高く飛び上がるには、思いきってかがまねばならぬ。
この心持ちでいるならば、もし君に何かあった時、あるいは正義に憤って人と対抗せざるを得なくなった時、君が相手の眼を見つめる眼は、はじめてこの時、最も強い力を発揮するものです、平常、憤る稽古や、人と対抗する練習は全く無用有害のものです。
「自分の錯覚かと思っていたのに、他人にも実際に見られる」とは、錯覚ではない。
自分自ら、不自然に、故意に作った、当然のいやな眼つきであることは確かです。
逃げ腰の喧嘩の腰つきは、誰にも容易に見分けられるものです。
皆、不真面目の結果で、当然、これを自ら恥じなければならぬことです。
赤面恐怖が自分の恥を隠そうとして、当然恥ずべきことをも恥としない心持ちの現れたものです。
「自分は、一生、このままで、悲惨な不幸で終わるのではないか・・・。」しからば、醜男、メッカチの人はいかに、この人生を終わるのか。
愚人、不健康な人は、以下にこの世に生き得るのか。
盲人の保己一もあれば、病弱のダーウィンもあり、強度の神経衰弱にかかった白隠禅師もある。
盲人がいたずらに眼明きに対抗するに及ばず、小胆者が大胆者と競う必要はなく、ただ自分の持前の全力を発揮していけば、保己一にもなれば、ダーウィンにもなるのです。
「自分は事実、今一人の友人もなく・・・。」
それは、交際を求め来る人さえも、自分がこれを素直に受け入れないからである。
人に負けるのがいやだからである。
盲人がいたずらに眼明きを邪推して、すね、いこじになるようなものである。
自分が気の小さいことを、ありのままに打ち明ければ、真の友として交わりにくる人は、いくらでもある。
自分の本心が、孤独を好むのではない。
負け惜しみである。
勝とうと焦るからから負ける。
負けるがままに、捨て身になれば、必ず勝つものです。
「耳の不揃いのもの・・・。」顔の左右不同や、耳の不揃いは、普通の人にもありがちなことで大きな意味はないものです。
盲人が疑い深く、ビッコが世をすねるよりも、もっと意味のないことです。
これは不具が人を羨むために起こることです。
自分自身になりすまして、人に対する反抗をやめさえすれば、必ず自分の長所は、自ら発揮されるものです。
自分自身を発揮さえすれば、人相ぐらいのことは何でもないことです。
耳の不揃いでも、身体の不具でも、これを解釈し、弁護し、解決する必要は、少しもいらないことです。
「他人から自分の批判・・・。」人が自分をいかに批判しようが、それは各々その人の勝手であって「小人は利にさとり、君子は義にさとる」ものであるから、それをこちらからどうさせることもできない。
人は人、われはわれ、何とも致し方ないことです。
※参考文献:対人恐怖の治し方 森田正馬著