事実に服従する
二十八歳、大学生。
対人恐怖症。
昭和六年十月入院
対人恐怖症克服日記第九日・・・朝、先生から「ここへ、石を置くよう」といわれて、早合点して、炭取りに瓦かけを一杯いれて持って来て、間違ったことをした。
こんな時、も一度、お尋ねしてすればよいけれども、そうすれば、カンの悪い男だと思われはしまいか。
いやいやながら仕事をすると思われはしまいか。
問う態度が生意気だと思われはしまいか。
こういう気持ちから、よくわからなくとも、ハッと答えてしまう。
「あの石」といわれた時、「どの石ですか」と、すぐ出ないのは、どうしたものか。
よくよく間の抜けた人間だと、自分ながら愛想が尽きる。
便所の掃除をするにしても、しないと、気の付かない奴だと思われるのがいやなためにやる。
障子を貼るにしても、障子貼りそのものは面倒であるが、不親切と思われるのがいやなためにやる。
こんなやり方は、不純なものと思いますが、いかがでしょうか。
対人恐怖症克服日記への森田正馬の回答『その心持ちは、皆よし。ただし、自分があまり早く、簡単に善人になりたいとあわてるために、かえって悪人になるものが多い。』
「純なる心」について、先生のお話があった。「純なる心とは、『柳は緑、花は紅』で、イヤはイヤ、好きは好き、そのあるがままの心をいうのである。
イヤイヤながら、仕方なしにやっていれば、そこに工夫も発明もできる。
イヤをイヤと感じないような修養をするから、ますます人間味がなくなり、間違いだらけになるのである。
『素直な心』とは、事実に服従することである。
不可能なことを可能にしようとするために『のれんと角力』になり、及びもつかぬ力に、はむかうために『とうろうの斧』とかいうことになる。
まず事実ありのままを認めることが必要である。
先生は、弟子よりエライ。
これが事実である。
この事実を認める時、従順になる。
事実には、けっして飛躍ということはない。
自分が、忽然に悟りを開き、急に偉くなったというふうに思うのは『気分』上のことで、客観的な事実ではない。
一歩一歩、修養が積んで、偉くなるので、自分で偉いと独り決めは、ダメである。」
対人恐怖症克服日記第十一日・・・先生から「一波をもって、一波を消そうと欲す」ということについて、お話があった。
よくわかって、胸のすいたような気がした。
しかし先生の皮肉は、毒々しくて、実にいやである。
対人恐怖症克服日記への森田正馬の回答『毒々しいとか、このような言葉を用いる人は、いつも見込みがない。
常に人に好かれたい心に満ちているかと思うと、突発的に大変な悪言を用いる。
これを分裂性という。
これでも、退院しないのは、全く思い違いで、強情というのである。
ちょっと面憎い人を見て「はなはだ失礼ですが、私は、あなたが、何となく癪に障りまして・・・」など、アイサツは余計のことで、これを正直の表現と思うのは「自欺」の類である。』