純な心と悪知恵

二十六歳、農、対人恐怖症(工業高校卒業)。

対人恐怖症患者の克服日記第三十九日(昭和八年十一月四日)午前、先生は藤棚の手入れをされながら、お話があった。

「心機一転とは、平生内向性の心が、次第に変化して、ある機会に一転して、外向的となることである。

その手段としては第一に、自分の病状を言わないこと、書かないことで、第二には、仕事に乗りきることの二つである。

それは第一は、いつまでも、同じことを繰り返していれば、決して忘れる時節は来ないからである。

黙っていさえすれば、忘れることは、案外早いものである。

第二の仕事に乗りきるには、ただ、自然の純な心から出発して、間違った理屈がなければよい。

たとえば、今先生が、藤の手入れをしているところを見るとすれば、あの老体で高いところで危なっかしくてハラハラするという感じが起こる。

あるいは先生のような人が、植木の手入れをするのはどんなことをするものであろうかというような好奇心が起こる。

アレ、あの若い長い枝を切った。

惜しいことである。

どうして、あんな切り方をするであろうかという考えの起こるのは、すなわち純なる心である。

こんなふうで、感心してわれを忘れて見入っていると、その枝のぜん定の意味も次第にわかり、来年の花芽なども、明らかに区別ができ、教えられなくとも、その要領が覚えられるようなものである。

これに反して、「人は何でも知っておかなければならない。

先生の見習いをしなければならない。

頭を精密に働かさなければならない。

働いていさえすれば、病気が治る。

気を利かさなければ、また先生に叱られる」とかいうふうに考えるのを、悪知恵といって、先生のいわゆる「思想矛盾」であって、少しも進歩のない、融通の利かぬものになって、けっして仕事そのものになりきることはできない。

今日の詰め込み主義の教育が、すべてこの悪知恵であって、教育を多く受けるほどますます働きのないものになってしまう。

ここの入院患者の実際を見れば、この関係が、よくわかるのである。」

後にまた、先生の外来診察をお聴きする。

二十余年来、毎月その半分は、疲労と悲観とで、ほとんど仕事ができなくなるという婦人患者である。

この人は、最近、先生の数回の診察で、元気に働くようになり、以前のようなことが全くなくなったとのことである。

この神経質患者は、皆思い違いから起こるものであるから、その思い違いということが、自分でなるほどと会得されれば治る。

すなわち二十年でもただの一年でも、これがわかりさえすれば、同様に治るのである。

入院しなくとも治るし、強情な人は、入院しても、なかなか治りにくいのである。

あっさりした人は、いうことをききやすいが、ひねくれた人は、なかなか難しい。

子供は、皆が笑っていれば、ツイ釣り込まれて笑ってしまい、後で「何が可笑しかった」と、理由を聞くというようなことがある。

ひねくれたものは、その可笑しいという理由を納得しなければ、決して笑わないというふうである。

こんな人は、なかなか治らない。

対人恐怖症克服日記第四十日:食事中、先生が片岡さんに話されたことのうちに、こんなことがあった。

「何月何日に彗星が出るという天文学者の測定は、今日の教育あるものは、皆これを疑わない。

入院四十日で、神経質が治るという先生の測定も、天文学者と同様である。

もしそれに疑いがあっても、その日の来るのを待って事実を確かめるよりほかに仕方がない。

「四十日後に、彗星が出るというから、もう少しくらいは出そうなもの」といって、毎日天を眺めても、決して彗星は出てこない。

こんな人は、四十日近くなると、もうくたぶれてしまって、実際に彗星の出る時には、すっかり見ることを忘れてしまう。

こんな人は、入院しても、なかなか治ることが難しいのである。」

今日は、先生と共に、金魚池の水替えをしながら、先生の前であるから、硬くなってしまった。

そして自分は、硬くなるまいとして、不可能な努力をし、すなわちあるがままの感情を忍受せずして、これに反抗したのである。

仕事が終わって、ホースを洗いながら、自分は一所懸命に、このことの解決を考えた。

あの場合硬くなるということは、人に不快を与えるのではあるまいか。

もしそうとすれば、罪を犯すことになる。

しかし、それが自分の業因であり、いかんともすることのできないことは、薄々ながら感じている。

ただ、潔く罪の自覚をして、罪人として、当然罰をうけるべきであると覚悟せず、その罰を受けることを本能的に恐れて、罪をごまかしているのであった。

とにかく、この対人恐怖症を治すためには業因を認めると同時に、本意なく犯す罪でも、その罪をごまかすことをやめ、いつでも、その罰を受ける決心で、罪人として人の前に出るようでなければ、けっして安心立命はできないようだ。

自分は、この苦しい強迫観念から、真言宗の教えと、同じ道に来たように思う。

対人恐怖症克服日記への森田正馬の回答『こんなふうに考えれば、ますます思想の矛盾に陥って、なかなか強迫観念を治すことはできない。

あまりに理屈にかない過ぎるのである「事に執するは、元是れ迷い。理に契うも、亦悟りに非ず」ということがある。

理と事実とが、別々になるからいけない。

前に話したように、もっと無邪気に、子供のように、人と一緒に笑ってしまえば、その理由は、直ちに後からわかるのである。

業因というのは、生まれつきの素質である。

男振りが悪いとか腕力がないとかいうのも同様である。

色の黒いために、人に不快を与える罪の報いは、いくらこれを論じても、解決のつくものでない。

よい嫁さんがきてくれないのも因果応報である。

ただし考え方によっては、醜男のために、古来奮発して、大人物になり、いかなる美人にも、後を向かせるというようになった人はいくらでもある。』

※参考文献:対人恐怖の治し方 森田正馬著