自分は苦しくても人を喜ばせる

重症の対人恐怖症(視線恐怖)克服日記第六十八日・・・午後、先生に根岸病院に連れて行っていただく。

病院では、講演のあった後、先生が、自分の日記を読まれて、自分の治病経過を説明して下さった。

先生は、自分の病気を治して下さったばかりではない。

自分という人間そのものを更生させて下さった。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者の夕食は、病院医局で、十数人とともに食事をしたが、あのような人の前で、本当にものを味わいながら食べたのは、はじめてである。

先生は、自分の病気の治ったことを先生ご自身のことのように喜んで下さった。

この次に喜んで下さる人は、母である。

いままで重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者は、ただわがままから、いかに母に対して、無理ばかり通してきたか。

元気が悪くて気持ちが悪い、それを母のせいにして、ダダッ子をいっていた。

母と数日、無言でくらした昔もあった。

しかし今は、ただ一人の母に、無条件で柔順にしよう。

ただ自分さえ、ちょっとの苦痛を耐えれば、母を喜ばすことができるではないか。・・・

重症の対人恐怖症(視線恐怖)日記第六十九日・・・朝食後、横浜の家へ行く。

すべての人の視線を浴びているような気持ちで苦しみながら通った東京駅が、今は微笑みながら、自分を迎えてくれた。

同じ東京駅が、自分の心がらから、このようにも変わって映る。

二ヵ月ぶりで帰宅。電車を降りると、急に足が早くなる。

母がおられるだろうかと気にかかる。

こんなに、気ぜわしいことや、気にかかることを、病的だとばかりに、否定しようしようとかかった昔がおかしい。

不可能を可能にしようとする愚か。

門を入って、種々のことが眼につく。

庭の穢いこと、泉水の故障、以前には全く気の付かなかったことが、次々と目に入ってくる。

まず乱雑な机の上を整理をする。

久し振りで、母の前で昼食をとる。

幼児以来のわがままと、母の辛苦とを思い出して、自分の浅ましさが、身にヒシヒシと感じさせられた。・・・

(重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者は、かつては家の不和を嘆き、母を怨み、自分が病的になったのは、皆その環境の悪影響であるかのようにかこち、悲しんでいたのであるが、今や心機一転して、その周囲に対して、これを善意に解するようになった。

こんなわけであるから、一般の人の環境のいかんを知るには、たんにその本人のいうところのみを聞いては、その善悪を知ることはできない。

むしろ人を怨む人は、すなわち本人が人に対してつれなく、周囲を賛美するものは、その本人自身が善人である、と解した方が、間違いがないかも知れない。

神経質が、家庭の悪影響から起こる、という見解も、たんにその一方面のみの観察であって、同じ兄弟であっても、神経質の素質のないものは、神経質の症状を起こすことがない。

そして、その神経質の症状を治癒せしむることによって、かつて悪意に見られていたものがたちまち一転して、善意に解されるようになる。

これは神経質の素質そのものを変化するのではなく、ただその症状のみを去ることによってできるのである。)

重症の対人恐怖症(視線恐怖)克服日記第七十日(七月三十日)・・・いよいよ退院の日が来た。

過ぎし七十日を顧みれば、夢のようである。

自分の心の変化が、いつ頃から起こったのかわからない。

ただ働いている間に、先生の指導によって変わってきたのだ。

先生は、自分の病気を治して下さったのみならず、自分は人生において、何事でもできないことはない、という自信を体験させて下さった。

一日の睡眠、わずかに五時間くらいで、それでも常人以上に、活動し得ることを知った。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者は夜は、荷物を整理する。

子供が、修学旅行にでも行く時のような気持ちである。

※参考文献:対人恐怖の治し方 森田正馬著