対人恐怖症の地獄
後、一週間して、重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者の四月十五日付けの手紙。
「・・・冷静になって、はじめて自分が、いかに非理性的なことをしたかがわかりました。
退院当夜より、三、四年以前の猛烈な不眠および頭痛を併発し、日夜、煩悶不安の中に病臥していました。
退院の時の心持ちは、自分は外界に出たら、この不快感が消えるか、と思いましたが、自分の心の歪みが直らない以上、外界が明るくとも、面白くとも、自分の心に受け入れられないことがわかりました。
視線恐怖も極度に達し、ただ家の中にいても、視線に入り来るものすべてをにらむようにして、二、三日間はこれに打ち勝つために、狂人のごとく市街を歩き廻りましたが、通行の人、自動車、電車すべてのものが、自分の眼の中へ飛び込んでくるような感じがして、ただ今は、ただの盲人のごとく目をつぶるか、あるいは暗黒のうちに寝るか、の方法を採っております。
先生のご親切を無にした当然の応報であります。
入院前の気狂いじみた行動、入院中のわがまま、退院に際しての衝動的な行動、考えてみると、自分の行動が、すべて非理性的に思われまして。・・・
ただこの一片の手紙を、患者諸氏にお示し下さいまして、いかに苦しくとも、規定に背かないで、治療なさるべきことをお示し下さいませ。
外へ出てみて、はじめて先生のご親切がわかります。
私にとって、すべて取り返しのつかないことでございますが、現在入院中の患者諸氏の、せめてもの見せしめにしていただきたいと存じます。」
四月十七日には重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者本人で再入院を頼みに来たけれども、許さなかった。
重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者は二十日には、手紙で、また頼んで来たけれども、断りの返事を出した。
重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者の二十三日の手紙には「・・・退院の原因は、けっして先生のご注意をいやがったのではありません。
実は、家人の不注意から、その二、三日前に、私の最も親しい友人の死去の報を受け取り、その悲しみを思えば、強迫観念などはどうでもよい、と考えたからであります。・・・」
二十四日付で、重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者より重ねて手紙が来た。
自分はこの病気が治らなければ、父から、断然学校もやめさせられる。
自分の最後の決勝戦である。
どんなに苦しくとも、いくら日数が長くかかっても差し支えないから、是非、再入院を頼むとのことである。
フト私の助手から、これに対する返事のハガキを見て、私は、これに対して注意した。
重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者に入院を拒むのは、拒むがために拒むのではない。
重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者の病を治そうとするのが目的であるといって、謝絶のうちに、多少の余地のあるように書き直したことがある。
その後、一度は重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者の兄弟が二人、一緒に頼みに来、また本人も来て、最後に母君と同伴して「私の方から退院を許すまでは、けっして随意に退院することはできない」という保証を立てて、はじめて入院を許した。
これが五月二十二日のことである。
これは単に、私の治療戦略であって、重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者に対して充分に背水の陣をしかせた、というに止まるのである。
※参考文献:対人恐怖の治し方 森田正馬著