天国の安楽
十九歳の娘とは思われぬほどの立派な文章である。
これによっても、実際の体験から出たものは名文もできるし、虚構のものでは本当のものができないという事が分かる。
しかしこれも、一般の人、もしくは対人恐怖症のまだ治らない人には、ただ漠然と本人の喜んでいる有様が推測されるに止まり、あるいはわざとらしく作った文章のように思われるだろう。
「あるがままにいきていくことは、涙ぐましいほど尊いこと」というのは「一寸の蟲にも五分の魂」で、いかに貧しき人の末までも、必ず生の努力がある、ということが、誠に涙ぐましいことでなくてはならない。
「ありのままの私が、人々の心に刻まれるでありましょう」、自分の劣等ということが人々にすっかり見すかされるということは、人情の堪えがたき苦しさである。
これを赤裸々に、思い切って自分を打ち出すということの気分が、この「刻まれる」と言う言葉のうちに表されているかと察せられる。
これは体験なくては、けっして出ない表現かと思われる。
自分が悪人であり、罪人であるということは、ただ自分で考えるだけでも、いかに淋しい浅ましいことであろう。
しかしながら、それは小人であり、凡人であり、悟らない人間のことであって、親鸞は、自分をこのように明らかに自認した。
そこにはじめて大きな自信があり、天国があるのである。
この娘さんは、いかに可愛らしくも、けなげにも、思い切って自己の「あるがまま」を人前になげ出したのである。
そこにはじめて、天国の安楽を体験し、歓喜し、対人恐怖症が全治し、こんな立派な文章が発露するようになったのである。
しかしこれでも、入院中はいかに、しばしば泣かされたことであったろう。
※参考文献:対人恐怖の治し方 森田正馬著