負け惜しみは、勝ちたがりになればよい

雑誌「神経質」第一巻第三・四・五号に、「入院患者の日記」のうちに森さんとあるのが患者のことで、常に森田正馬の説得の引合いに出されているのである。

本人の日記が、起床第五十一日までの分が、残念ながら紛失している。

本人の治療経過について、その後の日記から、少し書き抜いてみようと思う。


対人恐怖症(重症の赤面恐怖)の克服日記第五十一日:この頃何だか、心がせき立てられて、それでいて、仕事は少しもはかどらない。

花さんらの、ずんずん何の屈託もなくするところを見ると、自分のできないのが、じれったくいらいらして、くやしく感ぜざるを得ない。

対人恐怖症(重症の赤面恐怖)の克服日記への森田正馬の回答『これは負け惜しみである。こんなふうでは、いつまでも、決して進歩はできない。

羨みが増長すると、そねみになり、妬みになる。

そねみということは、人を落として自分がえらくなりたい、という気持ちで、自分が勉強して進歩しようとする工夫をなくするものである。

こんな心掛けをするよりは、まず自分は低能であり、痴鈍なものである、と極めてかからなければならない。

そうすれば、自分の気持ちは、ただ人の良いところを見習い、自分のやり方を絶えず工夫するようになり、人の善いところを見るほど、うれしく有難くなるものである。

世に智識のすぐれた人は皆、常に自分は無智であると思い込んで、絶えず智識を欲張り、取り込む人であり、世の富豪は、いつもいつも、自分は金が足りない、と考えている人である。

人を蹴落として、自分が金持ちぶろうとする人は、常に見栄ばかりを張って、いつまでも貧乏で終わる人である。

[読者に―この花さんという女中は、実は最も働きの鈍いもので、この患者よりは、ずっと劣っていたものである。]

対人恐怖症(重症の赤面恐怖)の克服日記第五十三日:私は、どうしても、負け惜しみの気持ちが取れません。

細かいことにも、ますます負け惜しみが執着して、どうしてよいかわかりません。

先生は、我を張ってはいけない、とおっしゃいますが、私はどうして、我が強いのでしょうか。

私は負け惜しみの気持ちがなくなりたいのですが、どうしても、それができないような気がします。

対人恐怖症(重症の赤面恐怖)の治療日記への森田正馬の回答:『大いによし。

このままにてよし。

これからはじめて、治り始めるのである。

自分は負け惜しみである。

これをどうしても取り去ることができない、と明らかに自分の本心を認めたこと、これを自覚というのである。

このように自分の本心を赤裸々に、僕にもその他の人々にも打ち明けることを告白と言い、捨て身といい、さてはこれを懺悔とも申すのである。

お互いにわれわれ人間は、皆負け惜しみであり、無智、貧乏がいやであり、病や死やは恐ろしいものである。

負け惜しみは、すなわち勝ちたがりということである。

日々に勝つ工夫と、修養とを積みさえすればよい。

人間は、貧乏でも構わない、負けても平気である、ということになれば、これをズボラのならず者と称する。

われわれは、ますます負け惜しみの心を発揮していかなければならないのである。』

※参考文献:対人恐怖の治し方 森田正馬著