人情の自然が立派だ

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記八日:霧が晴れかかってきた。

赤インキ『森田正馬が赤インキで書き添えたもの』は、朝日のような輝かしさに、霧を晴れさせてくれた。

岩の上に座って、渦巻き、ゆらぎ、沸き立っている波を見た。

そして海や空や波や日の光と話してみようと思った。

が、私の心はとても暗くて、何の内容物もなかった。

ガランとしていた。

夕暮れて、浪の音が恐ろしくなって、あわてて絶壁の下から立ち退いた。

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記への森田正馬の回答『自然は雄大である。

詩である。

君は自然の詩である。

世の実際の上に、この詩情を育成したい。』

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記九日:米を炊きながら、すばらしい声で歌った。

そして淋しさを消した。

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記への森田正馬の回答『わざとらしい。

真面目に淋しむがよい。

鮎のウルカのような味がある。』

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記十日:働いた。

それはそれは、眼の廻るほど働いた。

しかしあのうっとりとするような疲労が湧いてこない。

淋しいくらいだ。

健康。

祖父から、小包と手紙がきた。

紅茶と砂糖とが、愛情という封皮に包まれていた。

金も入っていた。

「わけもなく人が恋しい。

会えばまた、孤独が恋しくなるであろう」。

しかし早く東京へ帰りたい。

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記への森田正馬の回答『「わけもなく・・・」名句である。

富めば清貧がゆかしく、貧すれば富をうらやむ。

人情の自然が立派だ。

やはり自然は微妙雄大である。

禅語に「人無き時、人あるが如く思え。

人在るとき、人なきが如く思え」ということがあるが、むしろ人工的小細工である。』

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記十一日:久枝の海へ、貝を拾いに行った。

若い日の悔恨の苦悩と、美しいあこがれ、消えそうな淡い希望とを、破れ貝の銀色の中に止めておこう。

じっとして動かない空、そしてユラユラゆれる海、青い色、水平線の上に薄い三崎や大島、そして、じっとして眠っている帆、その真の美に酔うには、あまりにも穢い、苦しい自分ではないか。

芝生に寝転んで、大きな声で歌った。

手を組んで祈った。

この海を越えて、人々は都で何をしているのか。

そしてこの俺はどうだ。

百姓が不思議そうな顔をして、私を見に来た。

気違いだと思ったのであろう。

砂丘を越えて帰る。

宇宙はこんなに美しく大きいのに、時はこんなに永く速いのに、父は何だって、社会を重く見るのだろう。

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記への森田正馬の回答『何だって、父をこんなに難しく見るのだろう』

誰かが、「社会を研究するよりも、自然を見よ」といった。

「今の社会の制度は、皆間違っている、とキリストがいった」と、トルストイは彼の「わが宗教」の中に書いた。

文明を呪っている彼の書物も、やっぱり輪転機によって印刷され、書店に飾られた。

今日の文明を呪っているものの、そこに何か錯誤がある。

それで、こんな矛盾を生じたのだ。

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記への森田正馬の回答『人の思想には、パラドックスが多い。

自然は常に真である。

美である。

動物界の現象も自然である。

人間社会の現象も自然である。

物価騰貴も自然である。

何だって、死んだ貝殻、遠く眺めた山海、われに関係の遠いもののみが自然であろう。

かの岩壁を絶えず洗い流している波は自然である。

われわれの自然を大きく、かつ細かく観察するとき、絶えず人は、努力、奮闘しているのが自然である。』

母から手紙がきた。

二尺ばかりの手紙を、はじめ流し読みして、継母に対して、わざとらしい愛情を蔑み、幼い頃からの母の感じの悪さを思いめぐらした。

二回目に精読した。

継母に対して、こんな気まずい感情を持っているのに、継母は誤字だらけの手紙を書いて、体を大切にしてくれと、細々と注意してくれるのを比較して、恥かしくなった。

クリスチャンの私と、無宗教の母とを比較してみると、母の方がずっと愛を知り、愛を抱き、よほど私より宗教的な心を持っている。

そして今まで気に留めなかった彼女の、私にしてくれた親切なことどもを想い出した。

顔が赤くなって、あぶなく涙の流れるところだった。

今まであんなに偏した感情を持っていたのを、恥かしく感じた。

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記への森田正馬の回答『われに愛なければ、他のわれに対する愛に気付かない』

こうやって、親身のものから遠く離れて孤独の生活をすると、誰をかも愛さずにはいられなくなる。

芸術のためには親も捨てる、罪人とも呼ばれようなどと、強そうな偉そうなことをいっていたのは、確かに半分は病気から、半分は神経衰弱に、生齧りの文芸が注文したようにうまく適合したためであった。

それから、小説の乱読が、頭を変にしたかも知れない。

ロマン・ロランの新英雄主義に、拳を振って天に声を挙げたりしたのだ。

そして、どうかして、ロダンやミレーのような境遇へ、自分の境遇を作り替えようとして、あせったり、苦しんだりしたのだ。

今父が蒙古の砂漠吹き凍る北支那で、病気になって苦しんだり、私達を日々夜々、心配しているのを想うと、何を捨てても、父のため、母、祖父母のために尽くさなければならない。

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記への森田正馬の回答『この心持ちを起こすに至ったのは天の配剤である。

この心を失ってはならない。
トルストイの「わが宗教」を読んだならば、我執を捨てなければならない。

君のこの現在の状態は、神経質過敏であって、永くはつづかない。

また何かのことがあれば前の怨みや反感が、頭をもたげてくる。

で、この愛情と反感とが、チャンポンにいけばよい。

あまり拘泥してはいけない。』

しかししかし、私はあの憧情し抜いた文学者生活を捨てるのか。

ロダンやミレーや、ドストエフスキーのあの美しい苦悩を、いかに羨望したことだったろう。

そしてついに、どの苦悩の享楽のできない凡々たる生活に入るのか。

凡々たる生活、何という淋しい字だろう。

苦しい眠りに落ちる。

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記への森田正馬の回答『芸術心を捨ててはならない。

ただ世路の艱難をなめて、修養時代を卒業しなければならない。

そうでなければ、社会の有害者ができるだろう。

世には、アザミの花のような文学もある。憧情、羨望は房州の海や遠山の美にあこがれるようなものである。

海の涙は、絶えず岩壁に衝突して、ここに美がある。

しかも波は、これを快楽ともしなければ、苦悩ともしない。

享楽をあさるために、人はますます堕落の淵に臨むのである。

君の対人恐怖症は、人よりも強がりたいという欲望、その安楽になりたいという欲望の過重からであった。

苦悩を苦悩としてこれを苦悩した時に、その苦悩を忘れたのであった。

凡々たる生活人は万物の霊である。

その人間の生活が、何で凡々であろう。

われわれは遠く羨望するから、蝶の舞、蝶の働きが自然であり、真である。

我執の欲望が強いから、ただ自分のみが独り苦しい。

煩わしい思想のパラドックスが起こるのである。

われわれは万物の霊である。

大自然の発動である。

山や海やに、わが霊を附与して、これを美化してやるのである。』


※参考文献:対人恐怖の治し方 森田正馬著