生活そのものが詩であり信仰でありたい

私は、父に偽りの誓言が、クリスチャンの私として、罪悪感の値があります。

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記に対する森田正馬の回答『言葉尻の拘泥は、真の信仰ではない。改めて相談すればよい。』

私は文科へ入りたい。
人間らしい生活をしたいのです。

私は、少年時代から滲み込んだ、紛らわしい印象と戦いたい。

私は、少年時代の感化に圧倒されたから、これを圧倒し反してやりたいのです。

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記に対する森田正馬の回答『たんに少年時代の感情状態である。

貧に生まれた者は、貧の徳有。

富に生まれた者は、富の徳がある。

神を信ずるものは、皆これを善用することを知っている。

不満は人情の常である。

適度に忍ばなければならない。

・・・死にたい、と思う心は、生の欲の激甚な結果である。

自己身心の安楽を得るために神を信ずるものは、信仰に似て、邪欲である。

人生を、理屈や思想で解決しようとするのは誤解である。

これを解決するものは事実である。

食欲がなければ生命はないが、食欲にあこがれ、食道楽に浮き身をやつせば、その結果は人生の堕落に終わる。

知識欲、思想欲、解決欲、詩情欲、これらがなければ、高尚な人生はない。

しかしこれをもって人生を解決するものと執着し、あこがれ、かぶれ、翻弄される時は、ついに空想の極みに行き詰まって、禅のいわゆるつまらないことに心が縛られることに終わり、華厳の滝に帰着しなければならない。

これを解決するものは事実である。

君は心身ともに何事でも一人前できる。

人生は、詩人が直ちに詩ではない。

宗教家が、直ちに信仰ではない。

実業にも科学にも、詩もあれば信仰もある。

詩も信仰も主観的なものである。

生活そのものが詩であり、信仰でありたいものである。』

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記ニ十三日:・・・主人は笑って挨拶した。

私の存在は、気にもとめないという顔つきをした。

ここに私は特筆することがある。

以前なら、こんな空気を吸っただけでも、世から人から見離されたように、悲しさ淋しさに堪えられなかった。

今は何ともない。

先生の言われた依頼心が減ったのかも知れない。

独立心が次第に強くなった。

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記ニ十五日:煙草が吸いたくなった。

なぜかわからない。

「私は一人前になれそうだ」という予感、

すなわち病に対して寛大になってきた証拠かも知れない。

あるいは生意気の好奇心に過ぎないかも知れない。

先生へは「少しくらいは、かまわないか」と、葉書でお尋ねしておいた。

その葉書を出した帰りに、「朝日」を買って、二本吸った。

以前ならば、神経衰弱療法に、煙草と酒を飲むなと書いてあったので、他人の吸った煙草が顔へ流れてきても、恐ろしかった。

しかし今は、少しも心にとがめない。

吸ってみても、何ともない。

嬉しくもない。

そして吸わないと淋しい。

午後は労働。

夕飯に菜っ葉が食べたくなったので、前田へ行って、「菜っ葉はありますか」といったら、妻君がさもさもうるさそうな顔をして「鶏が食べちゃったが、勝手に持ってってくれ」とけんもほろろの挨拶に、私は身体中がむずむずして帰った。

対人恐怖症(赤面恐怖)克服日記二十六日:午前、歯医者へ行った。

巻煙草を吸って歩いてみたいくらい、気がのびのびした。

そして一本吸ってみた。

もう東京へ帰っても、大丈夫なような気がした。

晩秋の陽を浴び、青い浦賀水道を馳せて行く白帆や汽船を見たり、山を仰いだりして、のそのそと歩いた。

帰りには、ほとんど残像が見えなくなった。

しかし一時の現象であるらしいから、うれしくもなかった。

前田の妻君も、昨日、私にポンポンしたのが気の毒になったらしい。

眼に見えて親切になった。

私は別に気にもならない。

身も世もあらぬ、というほど悲しくもない。

厭になったら東京へ帰るまでだと、心が大きくなっている。

今までにはないことである。

※参考文献:対人恐怖の治し方 森田正馬著