なお対人恐怖症の心がけるべき態度を挙げれば―

まず第一に、デュボアの説得療法でもいうように、これと同じく常人が常識で忠告し訓戒するように、患者に対して「気を小さくしてはいけない、大胆になれ、勇気を起こせ」とかいうことがある。

しかるにこれは、患者自身がそう考え、そう苦しんで、その強迫観念になったものであるから、かえって患者の心の薪に油をそそぐのと、全く同様のことである。

対人恐怖症患者は、まず自分自身の本心に立ち帰らなければならない。

神経質の自己内省的気質の特徴を発揮して、深く自分自身を見つめ、自覚しなければならない。

すなわち自分は小胆、怯懦であり、何かにつけて人に劣るものである、ということに徹底し、なりきらなければならない。

このようになりきることによって、自分より劣ったものを見てはさらに身を省みて、人のふり見てわがふりを直し、優れた人を見てはこれに見習い、その真似をして努力しようとする。

したがって修養はますます積んで、人格はいよいよ向上するばかりである。

これに反して、対人恐怖症の患者は、自ら小胆ではいけない、恥かしがってはならないと頑張り、虚勢をつけようとするために、恥をも恥とせず、かえってますます恥知らずになる。

ある対人恐怖症の患者は、自分の箸の持ち方の悪いことに気が付き、これを人から見られないようにと苦心したのであったが、いまだ一度も、箸の持ち方を稽古するということには、気が付かなかったのである。

強迫観念は、常に自分の感情に反抗し、事実を事実として認めないために、常にその目的とは反対になり、逆行するものである。

すなわち対人恐怖症は恥知らずになり、不潔恐怖はいよいよ不潔となり、読書恐怖はますます読書ができなくなるものである。

たとえば正視恐怖は、自分が気が小さくて、人と面と向かって話すことができないと苦にして、いたずらに人を正視し、にらむことを稽古するものがある。

われわれの自然人情から起こる礼法でも、貴人に対してはその膝を見、目上の人にはその胸を見、友人であっても、その顔をちょいちょいみるだけで、これを見つめるということは、はなはだ無礼である、という事を知らないのである。

われわれは自分自身になりきる時に、苦痛を感じない。

平易な例は、近視眼の人は、正視眼の人に対して、悲観でなくてはならない。

それでも平気であるのは、持って生まれた性質として、自ら往生しているからである。

肺病恐怖も、実際、肺病になってしまえば、もはや強迫観念はなくなって、真剣な恐怖と摂生とになってしまうのである。

絶えず向上するひとは、恥を恥として、常に人に対して恥ずかしがり、常に自分を修養する人である。

金持ちになる人は、常に自分を「貧乏で、金が足りない」と気にするもので、けっして「貧乏など、平気でなくてはならぬ」と頑張ったり、「貧乏と思われてはならぬ」と、借金をして虚栄をつくすものではない。

智者になる人は、常に「自分は、ものを知らない、人に劣る、あれもこれも知りたい」と思う人で、けっして「自分は立派な智者と自信しなければならぬ、人から無智と見られないように」と、知ったふりばかりするものではないのである。

紀元五十年頃のギリシアの賢人エピクテトスは「人もし善人たらんとすれば、まず自ら悪人たることを自覚せよ」といっている。親鸞上人は、自ら悪人であり、罪人であると信じた。

それゆえに上人は、このうえなき善人であったのである。

以上のことを概括してみれば、私は試みに「事実唯真」という標語を作ってみたが、われわれは気分や想像によって、事実を思い違えたり、自ら欺いたりしてはならない。

いやでも応でも、事実は何とも動かすことができないから、常に事実を事実として、これを忍受し、服従しなければならない。

自分の心の真実を見極めることが、すなわち自覚であり、外界の実相を確認することが、すなわち真理である。

子夏が「賢を賢として、色に易う」といったのは「事実を事実として、感情に誘惑されず」ということになるのである。

われわれが毛虫を嫌だと思うのは、我々の感情の真実であって、動かすことのできない事実である。

これを好きにしたリ、気持ち良くすることはできない。

また一方には毛虫は人に飛びつくものではない、ということは、毛虫そのものの事実である。

毛虫を嫌だと感じないようにしようとするのは、感情の事実を無視する、不可抗力の努力である。

毛虫に植木をくわれるのが嫌さに、それが人に飛びつかぬ性質を知って、嫌なままに、これを取りのけるのが、われわれの正しい行動である。

こうしてその結果は、毛虫が全く嫌ではないという心境になっているのである。

これがまた、一方から見れば、私のいわゆる「欲望と恐怖との調和」である。

人に対して恥ずかしいというのも、これと同じく、われわれの感情の動かすことのできぬ事実である。

この事実唯真たるゆえんを知るのを自覚という。

また一方には、われわれは努力、修養によっては、どんな偉い人にもなれるということは、人生の事実である。

すなわち優れた人を見て、これを羨み、これを真似し、勉強すれば、そこに絶えざる人格の向上がある。

恥かしがらないようにと、不可抗力の努力をするのは、無知、無自覚のはなはだしいもので、自分より優れたものを羨むかわりに、いたずらにこれをそねみ、のろい、排斥して、人の長所を学ぶことができず、自分はますます向下して劣等となるばかりになる。

これこそ、恥ずべきことでなくて、何であろう。

※参考文献:対人恐怖の治し方 森田正馬著