羞恥は、人間本来の性情である。

生後六か月や八カ月で、すでに他人の乳は呑まない。

その女の顔を見ては、これを避けるのである。

恥かしいのでもあろうか。

次に羞恥から起こる人情の表現は、どうなるであろうか。

四、六歳の小児は、恥かしい人が来れば、逃げ込んで出てこない。

七、九歳になれば、そっと物の隙間から覗きに来る。

恥かしいもの、恐ろしいものは見たい、という好奇心が現われて、単に逃げるという簡単なものではなくなるのである。

十一、三歳に至れば、人前で逃げだすのはきまりが悪くて、もじもじと畳をひっかいたりしている。

恥かしがるのが恥ずかしいのである。

それから青年になれば、感情は次第に発達し、複雑になって、簡単に記述することは困難になる。

ぜんじつめれば、恥かしいという恐怖と獲たいという欲望とのきわめて複雑な関係の取捨、選択、やりくりの現象となるのである。

凡人、ないし偉人は、その恐怖と欲望とが良く調和して、境遇に適応性となり、変質、ないし天才となれば、それがあるいは一方に偏し、あるいは矛盾、乖離の状態になる。

意志薄弱の性格は逃避的となり、ヒステリー性は影弁慶となり、感情発揚性のものはでしゃばりになる。

神経質は、その羞恥の情は、私から見れば、人情の常態以上には出ないようであるが、その優越欲が過分のために、心にヒネクレを生じ、羞恥恐怖となる。

ある大学生は、対人恐怖症のため、三、四年間、人に見られることを恐れて全く外出ができなかったが、入院治療で全治し、大学に復校して、卒業後、今は奉職、勤務している。

※参考文献:対人恐怖の治し方 森田正馬著