「小胆者」、それは、自分の微弱、劣等感のために、何事にも躊躇して、これに当たろうとする気力のないものである。

大学に入りたい、達人になりたい、冒険をやってみたい、とかいう気は起こるにしても、とても自分にはできそうもないと、われとわが身を見くびって、奮闘努力心のないものをいうのである。

「恥ずかしがり屋」もその一つで、特に社交的に、他の人に対しての小胆者である。

小胆者に対しては、命知らずの無鉄砲な大胆者があり、「恥ずかしがり屋」に対しては、無遠慮で図々しい「恥知らず」がある。

常人、もしくは偉大なる人は、その中庸であって、「志は大にして、心は小さく」あるいは「人に対して、遠慮深く、つつましやかな」人である。

その両極端に走るものは、変質者であり、その中で、特に人に優れた技能を現わすものを奇人、天才と称することがある。

「はずかしがりや」にも、二通りある。

たんに恥ずかしいままに、いたずらに逃避の生活を送る者と、自ら恥ずかしがるのを、不甲斐なく、悲しむべきこととして、強いて自ら恥ずかしがるまいと努力するものとが、それである。

この、自ら恥ずかしがるまいとして、そのためにかえってますます恥ずかしがるようになるのを、強迫観念と名づけて、対人恐怖症、赤面恐怖、正視恐怖、振戦恐怖、発声恐怖、吃音恐怖、その他十人十色、命名すればいくらでもさまざまなものがある。

「金銭欲」「色欲」。どの人にもそれのない人はないように、恥かしいという事のない人のあるべきはずはない。

金が欲しいにも相違ないけれども、働くことが嫌で、その日暮らしの生活の人が、ただの「恥ずかしがり屋」に相当する。

これに反して、対人恐怖症は、金の欲しさに限りなく、また働くことは、どんな苦しいこともいとわないが、ただ自分の無能、劣等を取り越し苦労し、悲観し、手の出しどころのないのに苦悩するものである。

たんなる「恥ずかしがり屋」は、どうすることもできず、「縁なき衆生は度しがたし」であって、「猫に小判」「豚に真珠」である。

「求めよ、得られん」「叩けよ、開かれん」というように、ただ、努力をいとわないものは、どのようにでも、これを導くことができる。

特に対人恐怖症は、強迫観念のために、われとわが心から、「思想の矛盾」により自縄自縛しているものであるから、ひとたびその縄を断ち切れば「大疑ありて、大悟あり」というふうに、その悩みの大きかったほど、ますますよく完全に治るのである。

森田正馬のこの強迫観念のの治療法は、一般の人の人生の煩悶をも解決することができるし、修道に志す人の、修養の助けともなることができる。

込み入った強迫観念は、常人が見れば奇怪のようにも見えるけれども、静かにこれを考究すれば、われわれの心のかく大されたものであるということがわかる。

「人のふり見て、わがふり直せ」というように、これを見本として、自分の修養の資とすることができる。

森田正馬の患者のなかに最も多かった対人恐怖症患者のために、対人恐怖症、赤面恐怖、視線恐怖に関してまとめたものである。

※対人恐怖の治し方 森田正馬著