典型的な視線恐怖の多数の症例に共通する構造特性を取り出すと、つぎの4点に分けられる。
1.症状発生状況の拡散
赤面恐怖が中間状況で生ずるのに対して、視線恐怖では症状発生場面は広範囲に拡がる傾向があり、見知らぬ人達や時には親密な人達のあいだにあっても症状が意識されるようになる。
たとえば電車に乗っている時も、街を歩いている時も、あるいは自分の家にいる時も、他人―家族も含む―や自分の視線に恐怖をいだく。
このような症状発生状況の拡散は、原則として<赤面恐怖>段階にはみられない、新たにくわわる変化である。
2.被害者意識
1.で他人や自分の視線に恐怖をいだくと述べたが、このうち他人の視線への恐怖は被害者意識となって現れる。
対人恐怖症患者はどこに行っても他人に見られていると感ずる。
その際、何を見られているかというと、そのおかれる状況によって多少の違いはあるけれども、非常に多いのは、嫌な鋭い目つき、こわばった顔などである。
患者自身もその目つきや表情についてどう表現していいか困るらしく、殺気立った嫌らしい目、腐ったような目の色、性器のところに目線の行く好色の目つき、異様な電波のようなものを発する目、顔面蒼白となった顔、怒ったような笑ったような泣いたような表情、ぎくっとした変な顔、顔ばかりか全身がこわばった身振りなどの、実にさまざまな訴えがなされる。
対人恐怖症患者に言われてそう思ってみても、そこに見られるのは、多くの場合ごくふつうの顔や表情や目つきである。
というよりは、対人恐怖症患者の訴えとは逆に、優しい目つきや表情をそこに見出すことが珍しくない。
にもかかわらず対人恐怖症患者の悩みはきわめて深刻で、その確信は妄想といってよいほどに強固である。
対人恐怖症患者のなかには、毎日おそるおそる鏡で自分の顔をためつすがめるして、どこが異常なのかを確認しようとする者もいる。
この他に、程度の差はあれ、被害関係念慮ないし妄想がみられることが少なくない。
見られているという事自体すでに妄想的といってよいが、被害関係妄想という場合は、他人の言葉や態度を自分に関係づけ、被害的に感じとる状態を指す。
対人恐怖症患者は自分の目つき、表情、態度などについて、他人が噂したり、不快な態度をみせたりすると思い込む。
時にその確信は極めて強固で、分裂病妄想との区別の難しいことが稀にはあるが、対人恐怖症の場合には、原則として現に目の前にいる他人のことばや行動を自己に関係づけるだけにとどまる点で、一般には両者の弁別は容易である。
ところで先に、対人恐怖症患者は自分の異常性をどう表現していいかに困っているらしいと述べたが、それは対人恐怖症患者の実存の奥深くの変化にかかわっているためであって、その変化は第三の特徴である加害者意識と密接に関連し合ったものである。
3.加害者意識
対人恐怖症患者はただ見られるだけの被害者にとどまっていない。
対人恐怖症患者は見る他人を見返す。
対人恐怖症では「見る―見られる」という相互的な力学がつねにはたらいてくるのを特徴とする。
この点はすでに森田正馬が指摘しており、対人恐怖症者には、「自分は気が小さくて、人と面と向かって話すことができないと苦にして、いたずらに人を正視し、睨むことを稽古するものがある、・・・甚だ無礼である」と述べている。
そのさい、その見返す視線に著しい破壊力をおびてくるのが特徴である。
<表情恐怖>段階では、たとえば、こわばった顔を他人に見られることを恐れる恥辱的意識が主体であるが、<視線恐怖>段階にいたると、他人の視線の破壊力だけでなく、自分の視線の破壊力にも怯えるようになる。
よくある具体例をあげると、たとえば対人恐怖症患者が電車の中で前の座席の人を見る。
すると相手は目をそらしたり、顔をそむけたりする。
そんなことは当たり前ではないか、互いに見合ったら「にらめっこ」になってしまうと言いたくなるが、対人恐怖症患者は自分の鋭い視線のために相手に不快な思いを与えたと、自分の視線の破壊力を確信して深刻に苦悩する。
視線をそらされるだけでなく、対人恐怖症患者の視線のために相手の顔がみるみるゆがんでくると思い込む対人恐怖症患者も少なくない。
症例3では授業中の先生も、対人恐怖症患者の視線のために赤面し顔をこわばらせる。
ひどいのになると、たとえば電車に乗ると、乗客がみな落ち着かなくなって降りてゆくので自分は化け物ではないかとまで思い込む者もいる。
入院させたある症例では、自分がいると医師の手元をくるわせるといい、自分が存在すること自体が罪なのだと深い確信を抱いていた。
「存在すること自体が罪である」このような言葉が、実存哲学者から教えられたわけでもない対人恐怖症患者の口から時折もれるのを聞くのは、治療者にとって一つの驚きの体験である。
対人恐怖症患者はおのれの視線の破壊力をおそれて、人中では、目を伏せたり、新聞で顔を隠したり、黒眼鏡をかけたりする。
なかでももっとも悲劇的なのは、笠原嘉らの報告した学生の症例である。
この学生は「異様な視線を発する目から自由になろう」と、メチールアルコールによって視力の喪失をはかった。
「幸いにも一命をとりとめたが、不幸にも視力をほとんど失い、そしてさらに不幸なことには、視力を失っても、異様な視線の発散はとまらなかった。」
この視線恐怖には、さらにもう一つの注目すべき特徴がしばしば認められる。
それは視線の破壊力を増大させる視野拡大現象である。
多くの患者は、ふつうはぼやけてみえるはずの周辺視野まで鮮やかに見え、あるいは、ぼやけて見えてもそこに注意がむくために、視野に入った人達が落ち着かなくなると訴える。
症例4では、そのために男性の性器のある部分に妙な視線がむくために色目恐怖となり、自分は色気違いだと妄想的に確信するまでにいたっているが、これも視野拡大現象の一特異型である。
笠原らは、このような現象を、視線恐怖患者自身のことばを借りて「横恐怖」あるいは「脇見恐怖」と呼んでいる。
けれども、視野の中心部が気にならないというわけではなく、ただふつうは気にならない周辺視野まで明察される結果それにこだわるということだけなので、むしろ全視野を含めて視野拡大現象と呼ぶほうがいいと思われる。
ある学生は、その視線の破壊力が前方二百メートル先までおよび、子ども達まで恐怖におびえるので、ついに自分は犯罪者となったと思って絶望した。
このような視野拡大現象のために目の病気ではないかと思って眼科医を訪れ、異常なしといわれてもなかなか納得しない者もいる。
また、これほど自覚的に異常感を持たない症例でも、他人にどう思われているかと思って他人の様子をうかがっているうちに、他人の動きに人一倍気付くようになるのがふつうである。
したがって視野拡大現象は、程度の差はあれ、視線恐怖一般にみられる特徴と言えるであろう。
2.の特徴が「見られる」被害者意識だとすれば、3.のそれは「見る」加害者意識である。
症例によってどちらか一方が優位することもあるが、<視線恐怖>段階の大多数の症例において、両者が等価的に認められるのがふつうである。
たとえ一方のみを訴える症例でも、他方の存在を容易に知ることができる。
とたえば、自分の視線で他人が動揺し動作をこわばらせると自己視線の加害者のみを悩んでいたある視線恐怖症患者は、人中に出ると、たちまち委縮して動作がぎこちなくなるのが常であった。
要するに視線恐怖症患者は、他人の視線がもつ加害性に委縮する被害者でもあったのである。
けれども視線恐怖症患者は、自分の視線が加害的だからこそ人目のあるところでのびのび行動ができないのだと主張する。
こうなると卵が先か鶏が先か式の議論に陥ってしまうが、やはりこのような例でも、「見る―見られる」視線の相互的力学が成り立っているとみることができよう。
この相互的力学は精神分析的にみれば、つぎのようにも解釈されうるであろう。
すなわち、「見られる」被害者意識をともなった受動性と恥辱→怒り・攻撃的能動性→他者に不快を与えるところの「見る」加害者意識をともなった罪と怯え→攻撃性の他者への投影→不快と怒りのこもった他者の視線によって「見られる」受動性と恥辱。
これはピアースの恥と罪の循環図式にならって公式化してみたものであるが、本当は対人関係における愛、一体化欲求、投影とは対照的な機序である取り入れなどをもこの構造に組み込まないと、一面的との謗りを免れないであろうが、攻撃性の一面だけを切り出してその動きを知るには、この図式も便利だと思える。
しかし、ここでは精神分析的な力動論に深入りするのは避けておきたい。
というのは、そこまで追求しなくとも、現象学的レベルで十分に興味深い構造をみて取ることができるからである。
複雑に考えるまでもなく、つぎの事柄を容易に知ることができる。「目には目を」の比喩に似せていうならば、他人の視線によって加害され、あるいはおのれの自由を束縛されると感ずる者は、今度は逆におのれの視線が他人を加害し、あるいは他人の自由を束縛していると感ずるのが、倫理としては当然のことである。
したがって「視線には視線を」の相互的力学にもろに直面する対人恐怖症は、きわめて倫理的な病といえる。
そこにこの神経症に限りない興味を持つ理由がある。
ところで「見る―見られる」視線の相互的力学は、現象学的にみて、さらにどのような意味を持つだろうか。
たいへん興味深いことに、ここにはまた、「知る―知られる」「あばく―あばかれる」という相互的構造が認められる。
「見る」あるいは「見られる」とは、「知る」あるいは「知られる」ことであり、また「あばく」あるいは「あばかれる」ことにもなりうる。
実際に視線恐怖症患者は被害者意識において、たんに他人に「見られる」存在となるだけでなく、症例4
の患者が色情狂的視線に関連して「けだもの」「そこにいるだけで迷惑だ」「死になさい」といわれたという被害関係妄想をいだいたことに示されるように、「知られ、あばかれる」存在と化す。
視線恐怖症患者が単に「見られる」意識にとどまらず、しばしば被害関係妄想をいだくのは、「見られる」ことは同時に「知られる」「あばかれる」ことでもあることを端的に示したものと言えるのである。
それと同様に、「見る」さいに、「知る」「あばく」加害念慮ないし妄想を伴うことが当然予想されるであろう。
事実、視線恐怖症患者は、自分を見る他人の顔色を絶えずうかがううちに、善意も悪意も含めて他人のさまざまな動きを敏感に感じ取り、他人の心を見抜くようになる。
恐怖心をもつために善意よりも悪意を感じやすく、したがって明晰な認識とはいいがたいが、認識は認識であり、「知る」ことは「あばく」ことにもなるであろう。
たとえば、症例3の患者は、先生の顔を「見る」と同時に、先生の表情から見られて不快に思う先生の心の動揺を「知り、あばき出す」。
何というたわごとを言うのかと、あるいは人は言うかもしれない。
先生の心の動揺を「知り、あばき出す」。
なんというたわごとを言うのかと、あるいは人は言うかもしれない。
先生がお前に見られたからといって動揺するはずがないではないか、己惚れもいい加減にしろと、言いたくもなろう。
とはいえしかし、生徒の前で、自分の教育に絶対的な確信をもち、個人的感情を抜きにしてどの生徒をも広大無辺の心で受容できる先生がいるだろうか。
視線恐怖症患者の認識は錯誤だったかもしれない。
というより、そうであったに違いない。
が、同時に、限りなく真実に接近しているとも言えるのである。
不安や怖れや願望が産み出す幻想は、しばしば真実を知り、あばき出す。
否、幻想こそが、人間的真実を抉り出す唯一の源泉だと言ってもよいのではなかろうか。
実際、ニーチェや三島由紀夫は、恐怖や願望にもとづく想像力によって、人間的真実を白日のもとにあばき出した。
ルソーもまた、そのような人であった。
彼等はともに対人恐怖症的心性の持ち主であったのである。
想像力こそ存在の実相を解き明かす。
ところで、「見られ、知られ、あばかれる」場合には、患者が被害者となる。
これに対して「見、知り、あばく」場合は、どうなるか。
言うまでもなく、前者の場合とは対照的に、他者が被害者の立場におかれることになるのである。
そう言うと、たとえば症例3の先生は、なんらの被害者意識をもったわけでなく、そう思い込んだのは対人恐怖症患者の一人相撲、対人恐怖症患者自身が産み出した幻にすぎないではないか、と反論されるかもしれない。
しかし、そう考えるのは、幻想を個的世界に封じ込める独我論的迷そうである。
確かに、その時、先生は何も感じなかったかもしれない。
けれども一般に、人の視線を浴びた時、誰しも一瞬、心の流動性が多少とも凝固するのを感じるのは、ごく普通の事実ではなかろうか。
この点をもっとも深く追求したサルトルは、その時ひとはおのれの諸可能性の「死」を味わうのだとすら述べている。
また逆に、このようなこともある。
ある日、電車に乗って何気なく向かいの景色を眺めていたところ、競輪競馬新聞を読んでいた男が、突然私に食ってかかってきた。
男は何事か後ろめたいものを見られたと一人相撲を演じたのである。
同じことが当の体験をしている対人恐怖症患者にもいえる。
誰も見ているわけではないのに見られていると思い込むこともあるし、逆に、先に述べた視線恐怖症患者のように現に他人の視線を浴びて身の縮むほど委縮しているにもかかわらず、自己の視線の加害性にのみとらわれて、被害者意識をまるで自覚しないこともある。
こうみてくると、「見る―見られる」視線の相互的力学や、さらに「知る―知られる」
「あばく―あばかれる」加害と被害の相互的力学は、視線恐怖症患者の一人相撲ではなく、人間の事実性にふかく根ざしたものであると考えざるをえないのである。
もし視線恐怖症患者の一方的な幻想だとして突っぱねてしまえば、そこに自と他の関係の相互性を見て取ることはできなくなる。
よくみれば、視線恐怖症患者の個的世界の幻想は、その基盤にある人間関係の事実性に立脚したものであり、しかもその幻想こそが、その事実性を見事に浮き彫りにして見せてくれるのだと言いうるのである。
むろん病理的幻想と事実性との関連は、各種精神病理的状態によって異なっている。
多くの他の疾患の場合、幻想が事実性の自己欺瞞的隠蔽作用としてはたらくため、両者の関連を探るには深層心理への探求を必要とするのに対して、対人恐怖症では病的幻想が事実性を顕在化して示してくれるところに特徴がある。
このことは、多くの精神病理的状態が対人関係の葛藤にもとづいて生じるのにもかかわらず、症状としては対人関係とかかわりのない内容でもって現われるのに対して、対人恐怖症では、まさに対人関係の葛藤そのものが症状として結晶して現われることに示されている。
4.仮面性
恐怖の不思議な点は、恐怖しながら同時に、恐怖する当の対象そのものに魅入られ、不可抗的な力でそれにひきつけられてゆくという逆説である。
後者の力がつよまると、時にそれは怖れを知らない認識の情熱となって現れる。
このことは対人恐怖症一般についても言えることで、多かれ少なかれ認識へと促される衝動がはたらいているのが認められる。
それが熾烈な勢いでほとばしり出たのが、夏目漱石、三島由紀夫、ルソー、ニーチェなどにみられる、人間の心を抉り出すほどのすさまじい認識力である。
これらの人達にも程度の差はあろうが、何か知らぬデーモンに憑りつかれたように「見、知り、あばく」認識の情熱へと促されている点で共通する。
しかも彼らは、その情熱と同じ程度に、「見られ、知られ、あばかれる」ことを怖れた人達でもあった。
この恐怖と認識のはざまに姿を現すのが、「仮面」である。
仮面の神ディオニューソスの哲学者ニーチェや「仮面の告白」者三島由紀夫に、その典型的な仮面が認められる。
「見る―見られる」相互的力学から成る視線恐怖にも、仮面が出現する。
図式的に示すと、上のように、この世界では自と他がともに仮面をかぶって対峙する姿をとる。
この仮面の様態については、仮面一般についての考察を知っておくほうが理解しやすいであろう。
ここではオットーおよびベドゥアンの見解、また山城勝祥二編『仮面考』から、対人恐怖症に関連の深い部分のみを取り上げることにしたい。
なおオットーの見解については細井雄介の解説によることにする。
細井は、所詮人工のものとして生気を欠いているにもかかわらず、畏怖と魅惑とをそそる仮面の非人間的な非合理的な威力は何によっているのかと問い、仮面の神ディオニューソスについて、人々はまずこの神を凝視する神として把握した。それゆえにこれを仮面のうちに表現した。
眼を持つ表情は人や動物に固有の現象と考えられてきた。
仮面はこれを固定する。
そのさい、捉え方が表面的であればあるほど仮面の効果は大きく、顔がそこに在ることを示す最強の感覚像となり、対面した人をとらえてはなさぬ出会いが生ずる。この心理的事実から古来、神・精霊の顕現を示すために、仮面が聖なるものとして用いられてきたことも納得される。
しかし、これではまだ仮面の半面を語ったにすぎない。
もうひとつの重要な半面は仮面が裏側を持たぬという特質にある。
仮面は端的な出会いとして見る人に迫り、仮面の表は見る人とのはげしい緊張をかもしだすのであるが、いざ人がこの緊張する対立を超えてゆくものを仮面の背後に求めようとすると、そこには充溢する現存在はなく、いたずらに空無が拡がっているばかりである。
こうして仮面は、そこに在らぬものの象徴となる。
もっとも端的な「現在」と絶対的な「不在」とが同時に一つのもののうちに併在している、という構造を露わに見せてくれるのである。
仮面を論じだしたら切りのないものらしく、多様な人達からなるシンポジウム『仮面考』では、論議百出尻すぼまりの感を否めないが、そこで興味をひかれたのは、いま述べたような超自然的な存在にかかわる仮面Aと、私たちが、たとえば会社で上司に見せる顔、部下に見せる顔、飲み屋で友人に見せる顔、家庭で家族に見せる顔、・・・等々、さまざまにとりかえる顔としての仮面Bとが区別されて論じられた点である。
というのは、視線恐怖に現れる仮面は、仮面AとBの中間的様態―二大精神病に出現する仮面が、さらに仮面Aに近いのと比較すると興味深い―を呈するからである。
対人恐怖症では、すでに論じたように赤面克服の努力を試みているうちに、外面と内面が分離し、「顔がこわばる」「笑ったような怒ったような顔になる」といった自己の表情にこだわる表情恐怖へと変化してゆく。
<表情恐怖>段階にとどまっているうちは、まだ症状は中間状況のみに限定されることが多いが、<視線恐怖>段階になると、どこに行っても人がいる限り、多かれ少なかれその顔は凝固した仮面となる。
その仮面は、仮面Bのように器用に取り替えうるものではない。
しかも、その仮面の眼は不可解な威力を帯びてくる。
相手を見ると、相手の顔はみるみる歪んでこわばってくる。
あるいは、相手は顔をそらしたりする。
が、多くはそれ以上何をするわけでもなく、素知らぬ様子を装うのみである。
こうして他人も仮面性を帯びてくるのである。
対人恐怖症患者はその端的な出会いに緊張するが、いざ「この緊張する対立を越え行くものを仮面の背後に求め」てみても、「そこには充溢する現存在はなく、いたずらに空無が拡がっているばかりである」。
どうして他人は自分に対してそのような態度を示すのだろうか。
対人恐怖症患者はそれを「見、知り、あばこう」とするが、しかし、何を考えているのかわからない得体の知れない存在に恐怖をおぼえて目をそらす。
多くの視線恐怖症患者は他人の目を見ることができなくて人中で人目を避けるように振る舞うが、なかにはその不可解な仮面の威力に目を離せなくなる者もいる。
このような他者の仮面は、患者の視線の威力に対する防禦としての仮面であるが、同時に、その仮面をおびた他者は、その背後において空無ともいうべき不可解さを秘める存在に変貌する。
同じことが視線恐怖症患者の仮面にも成立していることは、言うまでもない。
視線恐怖症患者は他人に「見られ、知られ、あばかれる」ことを怖れて仮面をおびるようになったのであるが、その仮面が不可解な威力を発揮するようになる。
視線恐怖症患者自身も仮面によって変貌するのである。
しかも、その変貌の在り方は、自分の表情について表現に困るように、曰く言い難い混沌そのものを背後にかかえるのだといってよく、それは他者の仮面の背後にいたずらに拡がる空無に対応している。
このような混沌を背後に秘めた仮面の顔をもつ対人恐怖症患者は、しばしば自分の顔つきが醜いために人に不快を与えるのではないかと思って深刻に苦悩し、中には美容整形を試みる者もいる。
精神医学では、顔などの美醜にこだわる状態を醜貌恐怖ないし異形恐怖と呼ぶが、この種の患者―具体例が
症例4
にみられる―が自分のことを「身体的奇形以上に醜い」とか、「人間失格」とか「類稀な存在」(すべて対人恐怖症患者の言)などと規定するところに示されるように、単なる美醜を超えた問題がここには存するのである。
醜貌恐怖にもいろいろあるが、対人恐怖症にみられるそれは、美と倫理の接点に現れた症状といってよい。
美とは何かは、倫理と同様に規定しがたいものであろうが、少なくとも日本では、強い自己主張や自己顕示を秘めながらそれを抑制するところに美意識の基本が求められているのではなかろうか。
日本人は、日光の東照宮にも、路傍の苔むした地蔵にも強く心をひかれるところがあり、時代によってその美意識の在り方も異なっているようであるが、その行き着くところはその中間、つまりは含羞美ということばにしめされるような、美と倫理が分離していない日本的心性である羞恥的美意識に根ざしたものであることを指し示しているように思えるのである。
現代社会とは、仮面Aがその息の根をとめられ、それに代わってふかみのない仮面Bが横行する社会である。
そのためにAにもBにもなれない仮面がひそかに精神科医を訪れるのだとしたら、このような社会はどうなのかと、ふと、考えさせられることが多い。
※参考文献:対人恐怖の心理 内沼幸雄著