罪の意識が顕著にみられる<視線恐怖>段階の症状構造を明らかにすることにしたい。

<赤面恐怖>→<表情恐怖>→<視線恐怖>

症状変遷の進展とともに前段階の症状が背景化・潜在化する。

その過程をくわしくみると、面白い現象が認められる。

その一つは、病状狭窄現象や症状構造の転倒現象であり、もう一つは、赤面恐怖は赤面することのできない病いであるという逆説的現象である。

対人恐怖症患者は対人関係の「間」に著しい困惑を示す。

この「間」の意識こそ羞恥の構造の中核をなすものであり、その際ともなう赤面は、「間」の困惑による対人緊張の身体的表出にほかならない。

それが赤面恐怖となると、「間」の困惑は著しくなり、少なくとも第三者的にみると、その困惑自体が症状といってよいほどに目立ってくる。

そのさい、赤面の怖れ自体は、その下部構造をなす「間」の困惑を象徴する上部構造的な症状にすぎないのである。

ところが、多くの患者は、「間」の困惑に基本的問題があるとは気づかない。

むしろ赤面だけが症状であり、それさえ直してもらえば、なんでも積極的に行動できるのだと思っている。

このような症状についての対人恐怖症患者の問題意識がせばまってくるのが、症状狭窄現象である。

そればかりか、さらに主客転倒して、患者は赤面するから「間」のわるい思いをするのだと思い込む。

要するに、対人恐怖症患者にとっては恥ずかしいから赤面するのではなく、赤面するから恥ずかしいのだということになる。

これを症状構造の転倒現象と呼ぶことにする。

このような現象は、上部構造が下部構造にいかに巨大な影響を及ぼすかのよい見本である。

こうして対人恐怖症患者は赤面だけに意識を集中し、なんとか赤面しない人間になろうと、赤面克服の努力を試みる。

そうすればするほど赤面は恥辱の烙印という意味あいをふかめていくが、その際に注目されるのは、その克服の努力とともに表情恐怖や視線恐怖へと症状変遷が進んでゆく場合、本当に対人恐怖症患者が望んだ通りに赤面しない人間になってゆくことである。

このような事実を考えると、たとえ対人恐怖症患者が赤面の悩みを執拗に訴えようとも、赤面恐怖とは赤面することのできない病である、と思わざるをえない。

その逆説をもっともよく証示するのは、恐怖突入とか逆説志向とか呼ばれる治療技法である。

その技法の要点は、対人恐怖症患者が最も怖れる赤面を逆に願わせ、人前でリンゴのように真っ赤になるようにと試みさせることである。

このような治療者の示唆に対して、それだけは気付かなかったと驚きを示す患者が少なくない。

このような方法は、赤面克服に精一杯なあまり対人恐怖症患者の意識の盲点に落ち込んでしまっているのである。

一般に対人恐怖症患者は、人前に出る前から赤面するのではないかと予期不安に怯える。

いざその場に出ると、対人恐怖症患者の願いとは逆に赤面し、せつない望みはうち砕かれる。

そしてそのあと、やはり駄目だったかと、自信喪失に追い打ちをかけられる。

これに対してこの治療技法は、対人恐怖症患者の願いとは逆に赤面を願わせることによって、まず対人恐怖症患者の予期不安を打破する。

そしてその場に出て赤面すれば対人恐怖症患者の願った通りであり、願いが満たされるがゆえに、そのあとに自信喪失を残さないのである。

行動療法家は、このような技法を、毒を持って毒を制する脱感作療法と呼ぶ。

しかし、この技法はそのような浅薄な意味にとどまらない。

というのは、対人恐怖症患者の克服の努力が赤面しない厚顔無恥な人間になる努力であるのに対して、赤面を願わせる逆説的技法は、「益々恥知らずになる」と森田療法の対人恐怖症患者の病理を逆手にとって、赤面できる、より人間的な存在になることを願わせるものだからである。

いかなる治療法も、人間の自然性に逆らって成功するものではない。

対人恐怖症に対する逆説的治療も、一見不自然に見えて、実は、羞恥という人間存在の根源に還帰させるという意味があるからこそ、治療効果をあげうると言えるのである。

むろん対人恐怖症の治療は、このような逆説的技法に限られるものではない。

人間存在のさまざまな諸相を考慮しながら対人恐怖症患者の生活史、対人恐怖症患者のおかれた社会的文化的状況、現に対人恐怖症患者が直面している身近な問題などを総合的に検討しながら治療を行なうことになる。

そのさい、治療者はさまざまな問題に直面させられる。

その一つの例が、女性において対人恐怖症が目立って増加しつつある現象である。

この増加の原因として、敗戦後、女性が男性に伍して社会的に活躍しはじめ、もはや羞恥は美徳ではなくなり、女性も相手を睨む稽古をするようになったことと深く関連することは、逆説的治療技法が端的に示唆している事柄といってよい。

「羞恥の文化」を基調とする社会にあっては、自己主張はそれ相応のツケを支払わなくてはならないのである。

女性も大いに自己主張をするがよい。

しかし男性と同じように、それ相応の犠牲を覚悟してもらわなくてはならないであろう。

治療技法とそれに関連する諸問題には、そのほか興味ある事柄が多々含まれているが、本サイトではそこまで論ずる余裕はないので、どのようにして<赤面恐怖>→<表情恐怖>→<視線恐怖>へと変化するかについて検討するにとどめておきたい。

その事実からどういう生き方を求めるかは、読者にまかせるよりほかにあるまい。

では、症状変遷を駆動する要因は何であろうか。

むろんその変化を理解するには羞恥の構造を前提としなくてはならないが、ここではさしあたり臨床レベルにとどめておこう。

そのさい、理解の手がかりを与えてくれるのは、いま述べた逆説的治療法である。

この技法が逆説的に示してくれるのは、対人恐怖症患者が人前で赤面する無力な自己を克服して物に動じない人間になろうとすること自体が症状を悪化させる、という事実である。

ここで問題となるのが、対人恐怖症者に目立って認められる強力性と無力性の二面構造である。

対人恐怖症患者は、人前で動揺して震えたり、赤面したりする弱気な自己を強力性の側面によって克服しようとする。

そうして失敗すれば、人前にさらけ出された、あるいはさらけ出されたと思える己の不甲斐なさは、恥辱的な意味を帯びてくる。

強力性による無力性の克服の試みとその不首尾の繰り返しとともに、おのれの無力性に対する恥辱感がいっそう深められてゆくことは、とくに説明の必要もないであろう。

その克服の努力を繰り返してゆくうちに、赤面しない人間になってゆく。

内面では、いまにも赤面するのではないか、あるいはもうすでに目もあてられないほど赤面しているのではないかと、不安と恐怖で動揺していながら、その動揺はそれほど外面に現れなくなる。

こうして外面と内面が分離しはじめるのである。

しかし、その分離を完全に成功させることは、至難の技である。

というよりは、対人恐怖症では不可能である。

というのは、もし対人恐怖症患者が見知らぬ他人として相手に無関心でいられたら成功しうるであろうが、実は対人恐怖症患者が願っているのは、相手との情緒的な一体感だからである。

その結果、赤面は今度はどっちつかずの不自然な表情や態度にとって代わられる。

そのうちでも、顔の意識がとくに目立つのがふつうである。

こうして赤面恐怖に代わって表情恐怖が現れる。

多くの対人恐怖症患者は、こわばった顔、怒ったような笑ったような顔など、対人恐怖症患者自身も表現に困るような表情についての悩みを訴えるようになる。

日本の能面について「中間表情」説が唱えられている。

これは野上豊一郎の説で、明確な表情と無表情の中間型をその特質とするといわれ、世界の中ではこのような仮面は類例がないとされている。

ここで大変面白いのは、対人恐怖症患者の悩む表情が中間表情であることである。

能面の表情は、日本人の対人恐怖症的心性とどこかでつながっているのかもしれない。

それはともかく、<表情恐怖>段階に入るとともに、他人に見られ軽蔑されているのではないかという意識が徐々に前景化してくる。

だれでも心に後ろめたいものを隠し持っていれば、他人の視線を意識せざるをえないであろうが、内面と外面の分離しはじめる<表情恐怖>段階において、見られる意識が表面化してくるのは、十分了解しうる事柄といってよいであろう。

その段階に入ると、<赤面恐怖>段階にくらべて内面の怯えは、いっそう深まってゆく。

しかも、人に会うたびにたちまち不自然となる自分の表情に対して、どうしてよいかわからずに、いっそう困惑の度を強めてゆく。

そのために対人恐怖症患者は、ますます伏し目がちになる一方、他方では、赤面克服の努力と同じように、このような弱気な自分を人前に曝すまいと、相手を正視できる人間になろうと努め、また絶えず相手の顔色や態度をうかがい探ることによって相手が自分をどう思っているのかを知りたいと願う。

このような自己克服と自己探求の努力を繰り返しているうちに、表情恐怖はさらに視線恐怖へと発展してゆく。

その結果は、視線恐怖的世界にみるような、生きるためには負わねばならない人間存在の実相を知らされることになる。

その悲劇は、自己探求の結果、みずから知らずして父を殺害し母と結婚するという、おのれの呪われた宿命をついには知らされ、われとわが目を抉り出すエディプス王を彷彿させる。

※参考文献:対人恐怖の心理 内沼幸雄著