クレッチマーのいう二つの顔

「分裂気質」
a非社交的、静か、控え目、真面目(ユーモアを解さない)、変人。
b臆病、恥ずかしがり、敏感、感じやすい、神経質―自然や書物に親しむ。
c従順、気立てが良い、正直、落ち着いている、鈍感、愚鈍。

「循環気質」
a社交的、善良、親切、温厚。
b明朗、ユーモアがある、活発、激しやすい。
c寡黙、平静、陰うつ、気が弱い。

無限に多様な人間的事象のあらゆる単純化には危険をともなうけれども、それを自覚したうえで使えば、分裂気質と循環気質の二大気質は有用な操作概念となりうる。

そのような留保条件をつけたうえで対人恐怖症の病前性格をとらえると、その構造は二大気質の混合型、あるいは両気質を等量にそなえた中間型とみることができる。

まずクレッチマーの気質論のひそみにならってみるならば、中間状況において自他の合体と分裂との二つの志向に引き裂かれて困惑する対人恐怖症者が、その病前の性格構造において、両気質を等量にもつことは当然予想されることであったといえる。

事実その通りであって、簡単な症例報告からも、ある程度その傾向をみてとれるであろう。
一般的にいって、恥ずかしがり屋、照れ屋、はにかみ屋、人見知りしやすいという羞恥心の存在が顕在的ないし潜在的に共通して認められる点はともかくとして、対人恐怖症ということばから連想されるような内気、内向的、非社交的な人柄もいるけれども、逆に活発、外向的、社交的な人も決してすくなくないのである。

多くは両者の混合型であり、さらに明朗と陰気、多弁と寡黙、気性の激しさと優しさ、冷淡さと温かさ、大胆と臆病、理性的かと思えば感情的、ガキ大将かと思うと妙なところで引っ込み思案といった、さまざまに矛盾しあった性格要素が各人各様に混在して認められる。

たとえば、対人恐怖症にごくふつうにみられる現象として、次のようなことがある。

対人恐怖症患者は二人ないし数人での会話にさいして、二つの相反する反応を示す。

一般に会話には必ず「間」が生じるものであるが、対人恐怖症患者は「間」があくと、どう話をはさんでいいのかと困惑し、結局は沈黙してしまうため、孤立し超然としているようにみえるか、あるいは逆に、「間」があくのをおそれてつぎつぎと話題を持ち出しては多弁となり、過度に社交的に思えることもある。

表面的に一面のみを切り出してみれば、前者は分裂気質的、後者は循環気質的といえる。

持続的に一方のみの態度にとどまってしまうこともあるが、状況次第で、ある時は一方が、ある時は他方が前面に出ることが少なくない。

なかには、ある期間分裂気質的な性格像を見せていたものが、ある時期から逆に循環気質的な性格像へと、あるいは後者から前者へと、ある転機をきっかけにして大きな変貌をみせる者も必ずしも珍しくない。

ある男性患者は、女性に対してはまったくの非社交的、男性に対しては過剰に社交的であった。

同性愛的というわけでもなかった。

このように相手次第で二つの顔の一方のみを示す者もいる。

しかし、もともと人間は、そのような矛盾をはらんだ存在ではないかと反論されるかもしれない。

まったくその通りであって、それこそが本来の姿である。

だから私は、先に対人恐怖症者の性格構造を二大気質の混合型または中間型と述べたけれども、むしろそれこそが中核型であって、二大気質はそこに含まれる同調性と非同調性という根源的な二重性の一方の極に偏倚したものとみるべきだと考えている。

当然のことながら、実際には対人恐怖症者のなかには、両気質のうち、より一方の極に傾いたタイプの者もいることは言うまでもない。

ともあれ対人恐怖症は、人間の本来の姿である矛盾を際立たせて見せてくれるという意味においても、興味深い神経症といえるのである。

対人恐怖症者の性格構造が二大気質の二つの顔をもつというのと似たような見解は、回避性パーソナリティ障害―こういう表現が使われるところに、欧米諸国の文化圏における羞恥の抑圧が示されているといえる―の記述のなかにも認められる。

この性格の人達は、「親密な関係を形成する機会からみずからを遠ざける」けれども、分裂性パーソナリティ障害―きわめて大雑把に言えば、分裂気質ないし分裂病質に相当する―の持ち主とちがって、「他人の愛情や受容をつよく願い求める」自他合体的な循環気質的側面をもっていることが指摘されている。

また、クッレチマーの敏感性性格の記述にも、同じことを読み取ることができるであろう。

もうひとつ、対人恐怖症の性格特徴として目立つのは、強力性と無力性からなる矛盾構造である。

この点は、ずでに森田療法の定義、すなわち「対人恐怖症は、恥ずかしがることを以て、自らふがいないことと考え、恥ずかしがらないようにと苦心する『負け惜しみ』の意地っ張り根性である」という規定にふくまれている。

この定義を分解してみると、1.羞恥、2.ふがいないと考えるみずからの気の弱さ、3.「負け惜しみ」の意地っ張りな気の強さ、の三点から成り立っている。

一般に多くの対人恐怖症患者は、いったん対人恐怖症に陥ると、人と会うのが怖くなり、そのために自分を非社交的な分裂気質者と錯覚しがちである。

それと同じように、些細な対人関係に動揺する自分のふがいなさだけに意識がとらわれて、自分は弱いところばかりの人間だと思い込む。

そのためにますます対人関係から逃げ腰になるものもいるけれども、たいていの患者は自分の弱さを克服するために何らかの自己鍛錬法を試みる。

中には坐禅、ボクシングなどの激しいスポーツ、過激派運動への参加、自衛隊入隊、大勢を前にした弁論訓練などで物に動じない精神を鍛えようとし、はてはごく稀ではあるが、喧嘩―ある対人恐怖症者は、単身、日本刀をもって暴力団のたむろするところに殴り込みをかけ、連中を蹴散らしてきたや性的冒険におよぶ者もいる。

逃げ腰になるものでも、決して対人的孤立に超然とかまえて自足しているわけではなく、何度も人中に交わる努力をしてうまくゆかず、やむをえず対人関係を避けるに過ぎない。

このような対人恐怖症患者を数多くみていると、患者の主張にもかかわらず、その精神構造には、弱気と並んでかなりの強気の要素が混在しているのを容易に見て取れる。

強気の側面は、面白いことに、無力性の意識の過剰におおわれて患者の意識の盲点に落ち込んでしまうのである。

森田療法はこの点を指摘して、「対人恐怖症の患者は、自ら小胆ではいけない、恥ずかしがってはならないと、頑張り虚勢を付けようとするために、恥をも恥とせず、却って益々恥知らずとなる」と述べている。

対人恐怖症患者は客観的に見れば遠慮を知らない強気と思われる行動をとりながらも、なお自分では臆病だと思い続けることが少なくない。

とかくひとは、「弱い犬は吠える」といえば、人間の心がわかったような気になりがちである。

この点私も、対人恐怖症者から似たようなことを執拗に聞かされ、劣等感の補償としての「優越への意志」「権力への意志」といったアドラー流の見方に誘われた。

たとえば中学一年のころに視線恐怖で初発したある対人恐怖症患者は、自分が変な目つきをしているために、どこでも人から軽蔑の目で見られ、また自分が人を見ると相手を嫌がらせるという被害的および加害的な悩みを懐き、いつも人中でおびえて小さくなりながら中学・高校時代の6年間を過ごしてきたが、大学入学とともに自分の大学のすべての学生から自分の目つきに関して嘲笑的な噂話をされ、あげくは「きちがいだとまでささやかれている」(視線恐怖患者自身の言)という揺るぎないパラノイア的な関係妄想を発展させ、ついには登校もできなくなった。

母によると、小さい頃人見知りがつよかったけれども、つい最近までごくふつうに成長してきたと思っていたという。

しかし視線恐怖患者によれば、小さい頃から弱虫で、そのために小学生時代は弱い者いじめをされ、クラス全員から寄ってたかって馬鹿にされ、嘲られ、徹底して仲間はずれにされつづけた。

信じてもらえないかもしれないが、毎日が悔しさと屈辱の日々であったという。

そして小学6年の時からは態度を変え、みんなの仲間に入ろうとし、馬鹿にされたら相手を見返すくらいの攻勢に転じた。

そのようなある日、視線恐怖に陥ったのである。

この視線恐怖患者は本当に弱虫だったにちがいない。

そのために弱い者いじめをされたこともあったろう。

その悔しさから優越への意志へと姿勢を変えた―。

確かに、そう見ることのできる面があることも事実であろう。

しかし、それは事の一面でしかない。

具体的に訊ねてみたところ、どれを一つとっても集団的な迫害の事実はなく、ほとんどは互いに強がってみせたがる男の子の、この年代特有の冷酷さがあるとはいえ、考えようによっては他愛ない意地悪や無邪気な揶揄に過ぎないものであった。

問題は、それを受け止める対人恐怖症患者の性格にあったのである。

対人恐怖症患者は自分を弱虫と思い込んでいたが、親に叱られてもほとんど謝ったおぼえがないというほどの意地っ張りな人間であった。

そこで私は自分の子ども時代の体験を話し、患者の反応をうかがってみた。

そこに患者の性格がもっともよく示されていた。

それはこういうことである。

いまではこんなことはないかもしれないが、ある人は子どもの頃は隣町へ行くのが怖ろしかった。

ある日、町にいる親戚のところに行くために隣町を通っていった。
臆病者のその人はわき目もふらず自転車を走らせたが、途中にたむろしていた連中が「眼つけやがった」として、因縁をつけてきた。

その人はこん棒や自転車のチェーンや板っぺらに何本も釘を打ち抜いた武器をもつ十数人の連中に取り囲まれ、そのなかのひとりに胸倉ならず、鼻をひっつかまれて脅された。

いまから思えばまるでふざけた奴らだと思うけれども、平謝りに謝った。

土下座しろといえば土下座したかもしれない。

袋叩きにされるよりましだからね―。

この話を聞いて対人恐怖症患者は、どうしてもわからない。

何もわるいことをしていないのになぜ謝る必要があるのかという。

謝らなければ君は袋叩きの目に合う、それでも君は謝らないのかと繰り返し念を押して訊ねてみたが、患者は自分なら絶対に謝らないと頑強に主張する。

このように自分は弱虫だ、強さのかけらもないと思い込んで激しい劣等感にさいなまれている患者に、しばしばおどろくほどの強さが発見される。

そればかりか、少なからず
現実的な強さを発揮しうることは、対人恐怖症的心性の持ち主で、のちにパラノイア性の妄想を発展させたルソーが、よい見本である。

ルソーはみずから告白するほどの弱い人間ではない。

むしろ同時に、ふてぶてしいほどの強さをもった人間であった。

この点はルソー研究者のほぼ一致した見解となっているようである。

その場合、彼の強さは弱さの補償といいうるだろうか。

決してどちらにも還元しうるものではあるまい。

先の対人恐怖症患者が幼少の頃、仲間の他愛ない揶揄や意地悪に迫害的な悪意を感じ、自分の弱さに付け込まれたと感じとったのも、患者の不屈な誇りと自負と反感があったからという逆の見方も可能なのである。

むしろ強さ、大胆さ、自負心があるからこそ、かえって弱さ、小胆さ、自信喪失が強く意識されるのであって、ここでも「敏感性性格の両成分、すなわち無力性の不全感と強力性の自意識とが特殊な規則性でもって刺激されこうして両成分間の対立緊張は高められる」という、敏感関係妄想についてクレッチマーが述べた公式がそのままあてはまる。

強気と弱気のこのような二面的矛盾性は、対人恐怖症患者の生活のあらゆる価値領域のすべてに必ずしもみられるわけではなく、患者に応じて知的、美的、性的、倫理的、身分的、その他さまざまな価値領域のどれかに目立って現れることもある。

しかし、なかでも最も多いのは、さまざまな価値領域にわたる漠然とした対人関係での恰好のよさや優劣にかかわる面に二極分裂性がみられる場合である。

この点、クレッチマーのいう敏感関係妄想が、性倫理的ないし職業的という比較的かぎられた局面をめぐって展開されるのとはやや違って、問題となる対象が広範囲な価値領域に拡がっており、ここにも日本では欧米とちがって羞恥がさまざまな面に浸透して現れているという比較文化論的な差異が反映されているのだと思われる。

ともあれ、これから問題になるのは、二大気質の共存、それと本質的に関連する同調性と非同調性、自他合体的な没我性と自他分離的な我執性、他人本位と自己本位といった、それぞれ表現は違っても基本的には同じ意味合いを含んだ対人関係の在り方の二面性と、今述べた強力性と無力性の二面的矛盾性とがどのように関連し合っているのかという点である。

森田学派の近藤章久は、すでに取り上げた森田療法の対人恐怖症についての規定から、

イ、恥ずかしがる傾向と、

ロ、その傾向を抑圧、否定しようとする「負け惜しみ」の意地っ張りの傾向の二つを取り出し、これらの傾向から、

イ、「人に良く思われなければならない」という配慮的要請と、

ロ、「優越しなければならない」という自己主張的要請を導き出して、この矛盾した二つの要請の相互力動にもとづく対人恐怖症論を展開している。

ここには、他人への配慮という循環気質的な要素とよく思われたいという依存的な無力性が、また自己主張という自他分離的な分裂気質の要素と優越を求める強力性の要素とが混淆しているようである。

対人恐怖症論をよりいっそう発展させるには、このような混淆を腑分けするとともに、両者の関連性を解き明かしてゆくことが必要であろう。

どのためにはまず、羞恥の構造を明らかにしておかなくてはならない。

※参考文献:対人恐怖の心理 内沼幸雄著