”乖離型の治療”

ところで、対人葛藤と症状内容の乖離とは、どのような意味を持つか。

乖離とは、言葉を変えていえば、対人葛藤を症状内容から切り離し、葛藤への直面を回避し、意識の外に追い出すことである。精神分析学の用語をかりれば、乖離が著しくなるとともに、心理力動において無意識レベルの葛藤が主体を占めることになる。

著者の医師は以前、このような型の神経症を自己欺瞞型神経症と名づけた。
自己欺瞞という言葉には価値判断が入りかねないので、ここでは対人恐怖症の中核群を、症状――葛藤非乖離型神経症とよび、これに対して乖離の著しい類型を、症状――葛藤乖離型神経症とよぶことにしたい。

乖離型の治療技法は、対人恐怖症の中核群のそれとはおのずと異なってくる。
その治療の要諦は、対人恐怖症患者が直面するのを回避している無意識レベルの葛藤に、意識をむけさせることにある。
共感をもってその苦悩や悲しみを受け止め、問題解決をともに模索するのである。

わかりやすい具体例で説明しておこう。

ある中年の男性患者は、嫁姑関係が険悪となって結局母親と別居することになってから、乗り物恐怖症におちいった。
患者は電車に乗ると、めまい、冷や汗が生じ、腰の力がぬけて立っていられなくなった。
身体の病気ではないかと思い、いくつかの内科を受診したが異状なしといわれ、内科からの紹介で精神科に回されてきた。
診断的には不安ヒステリーといっていい状態であった。

よく話を聞いてみると、症状は母より電話があるたびに悪化し、しかも興味深いことに、母が近くにいる山手線にむかう電車で顕著であった。
対人恐怖症患者は嫁姑関係の平衡の乱れにたえずおろおろしていた。
めまいは医学的には平衡失調症状であり、この対人恐怖症患者の症状は、嫁姑関係の平衡の乱れという対人葛藤を象徴的に示しているものと考えられた。

このような対人恐怖症患者に対しては、対人恐怖症の治療的に症状だけを問題にし、それで死ぬことはないから気にするなとか、恐怖に対して恐怖で脱感作する逆説志向をこころみても、あまり効果はない。
それよりも大切なのは、身体の病気と思いたがる対人恐怖症患者に対して、このような嫁姑関係に共感をもって耳を傾け、その問題解決の相談に応じることである。

事実、その面でのはたらきかけで顕著に改善した。
もっとも完全治癒までには数年という時間を要した。
それも当然のことで、男は誰でもこのような関係に逃げ腰であり、泰然自若でいられるのは、おろおろしながらやっと到達しうる境地だからである。
というより現実には、そのような境地は到達不能の理念というほうが正確な事情であろう。

※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著