”「恥じらい」も欧米では欠点”

第一に、マークスの著者やDSM――Ⅲでの社会恐怖症では、対人恐怖症の中核群よりも辺縁群におおきな比重がおかれている。
この点が、対人恐怖症と社会恐怖症の違いである。
有病率に関してイギリスでは、日本と大差がないくらい高い数値があげられているが、アメリカ合衆国では稀だとされている。
この差には両国の国民性が反映されているのかもしれない。

第二に、DSM――Ⅲでは、社会恐怖症に陥りやすい性格として、回避性パーソナリティー障害があげられている。

その記述によると、「この性格の人達は拒絶、屈辱、ないし羞恥に過度に敏感である。
たいていの人は、他人が自分をどう評価するかにある程度関心をもっているけれども、とくにこの種の人達は、きわめて些細な非難の徴候ににひどく心を傷つけられる。
その結果、軽んぜられはしまいか、はずかしめを受けはしまいかと怖れて、親密な関係を形成する機会からみずからを遠ざけるのである。
対人的に孤立しながらも対人関係を求める欲求をもたない分裂性パーソナリティ障害の持ち主と違って、このパーソナリティ障害の人達は、他人の愛情や受容をつよく願い求めている。
彼らは他人と気安くつきあう能力に欠けるために苦しみ、低い自己評価に悩む」と述べられている。
まるで日本人のことをいわれているようではないか。

ところでこういう評価はいかようにも解釈のし直しができる。
つまり評価する人間が無神経ではないかということだ。
もし、他人の愛情や受容をつよく願い求めているなら、どうしてその点の配慮をしてやらないのか。
それが優しさというものではないか。

日本人はあまりずけずけと発言しない。
この評価によれば、「他人と気安くつきあう能力に欠ける」ということになろうが、日本人ならむしろ「奥ゆかしさ」と評価するであろう。

拒絶や見捨てられることへの不安についても、日本人ならその点への気配りを十二分にするはずである。
むろんアメリカ人だって、その配慮に欠けているわけではない。
だが、配慮の仕方が違う。
そもそも日本人は幼児期に母子密着度が高いため、見捨てられることへの不安がつよい。
同じようにして育てられた母親自身、その不安を潜在化させているために、子どもを躾けるとき本能的に「いうことをきかないなら誰々さんにあげちゃうから」と見捨てる脅しをする。
本能的とはいえ、まことに見事である。

このような不安に対しては、言葉による配慮はあまり効果がない。
子どもがいうことをきいたら、頭をなでたりだいてあげたりなど、非言語的な受容が必要である。
配慮というよち気配りという言葉がぴったりで、言葉はむしろ少なめのほうがいい。

このような日本人の気配り的な、そしてそのもとにある羞恥的な、対人関係のなかでは、回避性パーソナリティ障害はむしろ繊細で奥ゆかしい人がらとして、プラスに評価されるに違いない。

※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著