●「すべからず」でがんじがらめに――排尿困難恐怖
”公衆便所で用がたせない”
J男、初診時ニ十歳の大学生
対人恐怖症患者は中学三年のある日、休み時間に便所に行ったところ、なんとなく小便がすぐでないのに気づいた。
その日は期末試験があったが、それほど緊張していたわけでもない。
便所には何人かの人がいたが、それもとくに気にはしていなかったように記憶している。
その日はなんとか用はたせたが、数日後また同じような感じを持った。
それ以来、人がいるときは大便所で用をたすようにした。
そうするうちにますます人を意識するようになり、学校ばかりではなく、駅などの公衆便所でも、緊張してできなくなってしまった。
泌尿器科では異常ないといわれ、また家や大便所のなかではなんの支障もなくでるので、精神的なものと思って無念無想の気持ちになろうとしたり別のことを考えようとしても、小便がでない。
ときに成功することもあるが、人がうしろで待っている時には、まずでたことはない。
公衆便所以外では対人的に特別緊張するわけでもないが、親友に旅行に誘われても、そのことを思うと心配で断るようにしている。
両親は健在で、二歳年下の弟がいる。
子どもの頃、両親はとくに大小便の躾けに厳しかったことはないが、やんちゃな弟にくらべると、わりと早く身についた。
小さい頃から親の言うことはよく守り、家の手伝いもよくするいい子で、交友関係もふつうであり、母親は息子がまさかこんなことに悩んでいるとは知らなかったという。
他の対人恐怖症状の一環として排尿困難恐怖が見られる例も存在する。
が、この症例では、排尿困難が生じたあとで、便所という限られた状況での対人緊張症状が出現している。
この症例は、山田氏らの分類にならっていえば、排尿困難恐怖の中核群とみなしうる事例である。
著者の見方からすると広義の対人恐怖症の辺縁群として位置づけられる。
これから単に排尿困難恐怖という場合は、このような中核群、つまりは対人恐怖症の辺縁群をさすことにしたい。
排尿困難恐怖も会食恐怖も、特定の局限された状況における恐怖という点では共通する。
しかし、後者はノドがつまって吐くのではないかという、不安発作に近似した症状であるのに対して、前者の不安はより内面化された葛藤となっているのが特徴である。
この点は、不安を感じるとき、誰もが胸苦しさや動悸に襲われるのに対して、排尿困難恐怖をおぼえるのは稀であるという、一般現象と関係があるのかもしれない。
そのために、なぜこのような不合理なことが起こるのかと、対人恐怖症患者はあれこれ知的に思いをめぐらし、無念無想になろうとしたり他のことを思い浮かべてみたりすることになる。
胸がつまるなら、それ自体不安そのものの表出であり、知的にあれこれと考える余地はとぼしい。
そのために感情的に押し流されて、逃げるにしかずという逃避的姿勢と結びつきやすい。
これに対して、排尿困難では知的操作の余地が多く残されている。
知的操作とは、おのずと不合理な現象に対する抵抗という意味あいを帯びてくる。
※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著