●たしかな手ごたえをもって自分の人生を築く
”生き残りをかけた戦いを前に”
他人が自分をどう思うかなどということを気にしている対人恐怖症の人は、公私において甘えている人であろう。
生き残れるか生き残れないかというギリギリのところで、他人に嫌われるのが怖いなどと甘えたことを言っている人はいないであろう。
家のローンを払いながらギリギリの暮らしをしているサラリーマンを考えてみよう。
今月は厳しいという時、他人にお金がないと思われるのがいやだからといって、同僚に気前よくごちそうするだろうか。
不況で人員整理をはじめた会社にいるサラリーマンで、明日までにある報告書を書かなければならないという時、学生時代の友人に付き合いが悪いとおもわれるのがいやだといって、朝方までつきあう人がいるだろうか。
生き残りをかけて必死の戦いをはじめた者にとって、他人に自分がどう映るかなどと、いちいち考えている暇はない。
ただ必死になって目の前の仕事に取り組むだけである。
世間に対する見栄など張って苦労している対人恐怖症の人は暇人なのである。
生き残りのための戦場に立たされた人は、対人関係に過度の気を遣って神経性の胃腸障害などおこしていられないのではなかろうか。
誰かが自分を守ってくれる、その保護への期待が対人関係を苦しいものにするのではなかろうか。
学生などでも、先生の好意で単位をもらって卒業しよう、自分の実力以上のところに就職するためになんとかコネをひろげよう、そういう甘えがある対人恐怖症の人は他人と自然に接することができなくなる。
自分の実力相当の成績をとろう、自分の実力相当のところに就職しよう、そんな学生は対人関係で苦しまない。
人前で何か言おうとするとあがるという人も同じである。
そういう人は心の底で、人前で上手にしゃべることで何らかの報酬を期待しているのではなかろうか。
他人と同席するだけで不安な緊張感覚える対人恐怖症の人もいる。
その対人恐怖症の人も、常に他人からの保護を期待しているから軽蔑されるのを恐れているのだろう。
ある小企業の経営者に会った折り、車の話になった。
彼らは、「俺たちの仲間でベンツやレクサスといった高級車に乗っていたら、あいつは見栄っ張りだっていわれるだけだよ」というのである。
零細企業で厳しい戦いを日々行っている者にしてみれば、他人に良く思われようなどという見栄など張っていられないのだろう。
世間から笑われまいとする対人恐怖症的努力など、死物狂いで戦っている零細企業の人にはない。
世間に対する体裁をつくることは我々日本人がよくやることである。
それは、世間に対する体面の維持によって、われわれは世間から何らかの報酬を期待しているのである。
私は自分の力以上のものを得ようとは思わない。
そんな人が体面や体裁を気にするだろうか。
たとえば、戦国時代を生き抜いた者たちは、世間を意識して笑われまいなどという努力をしたであろうか。
世間を意識して笑われまいとしはじめた対人恐怖症者が増え始めたのは、江戸時代からであったという。
体面、体裁、そのようなものが人々の意識の中で重要になってきたのは、社会が安定し、文化が洗礼されてきた時代に入ってのことなのである。
おそらく個人について考えても同じである。
戦っている者は、他人に自分がどう映るかなどと恐れていない。
それをおそれて体面をとりつくろうのに苦労などしない。
他人の視線に敏感な対人恐怖症の人は、他人から保護を求めているにちがいない。
自分の力以上のものは期待しない人、自分で自分を守る覚悟の人、そんな人が何で他人の視線に敏感になったりしようか。
※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著