”デモクラシーと対人恐怖症”

デモクラシーは三十歳以下の若者に任しておくのは危険である、といった調子で何でも話題にし、時には話が脱線するのもといわないのが、対人恐怖症の治療技法としての自由連想法的雑談だ。

もう一つの逸脱型として、G男さんの例をあげることができよう。
この対人恐怖症患者は、一人の課長以外とは、上司であっても平然と話せる。
デモクラシーであっても、上下のけじめはあるはずだ。
むしろ欧米のデモクラシーでは、上下の差は日本の社会以上に判然としている。
G男さんのような対人恐怖症患者の治療では、この種のけじめの型を付けさせることが大切である。

自由連想法的雑談とは、あまり対人恐怖症の治療に結びつきそうもないデモクラシーの話までするのかと、疑問をもたれるかもしれない。
実はまったくその通りであって、話題に一切の制約を求めない。
むろん対人恐怖症の治療者の知らない世界が話題にのぼることも少なくない。
そのときは対人恐怖症患者からいろいろ教えてもらうことになる。

実をいうと、デモクラシーの問題は、対人恐怖症とは無縁ではないのだ。
三好郁夫氏の優れた対人恐怖症論によると、対人恐怖症者は「己惚れていながら完全には己惚れ切れていない人間」としてとらえられる。
具体的にG男さんの例で三好氏の見解を説明すると、こうなる。

すなわち対人恐怖症患者は、地位の上下、同性異性の差はなく誰彼となく平気で話しあえ、対人恐怖症患者はそのような自分に自己満足し、いうならば己惚れている。しかし、その己惚れのもとにあるのは非現実的な幻の自己像でしかない。
それは特定の一人の人間との関係で、違和感が意識されたとたんに幻の自己像が崩壊し、パニック状態におちいることからあきらかである。

ここには日本人の感情的平等主義、無差別悪平等が、ふかいかかわりを演じている。
このような社会では、「自分は自立した独自な人間である」という西欧的、個人主義的な自己意識というよりも「自分は自立した他人と変わらぬ人間である」という自己意識が育成される。

家庭でも他人との差別相よりも同一相に重点をおいた育て方がされている。隣がブルーレイを買えば
自分の家でもブルーレイを買わないと安心できない。
こういうことが逆説的に、他人との差異に敏感な人間を育ててゆき、己惚れを生みやすい。といっても、その己惚れは自立した独自性への自負ではない。
要するに、己惚れていながら己惚れきれるわけにはいかないのだ。

※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著