”「型破り」が怖い”
「間」の困惑が著しければ、その相応の「型」の崩れも目立ってくることが予想される。
D子さんやFさんはそのような例で、たとえばD子さんの生き方は型破りというより、好きな男性と性交渉をもつ際に失敗する可能性を怖れて、好きでもない男性と予行演習のつもりで初体験をするなど、まるで型破れである。
また対人恐怖症のD子さんは実際に、年数回、過去三十回以上も転職している。
人懐こいところがあるせいか、すぐ採用され、初めのうちは周囲からちやほやされて明朗にふるまうが、そのうち対人的な違和感、緊張感があらわれるとともに、すぐ転職するに至っている。
対人恐怖症の治療的に、地道に一個所に長期勤めさせる必要があると考え、転職する前に必ず治療者と相談することと約束を交わしても、約束はまもらず、また仕事を変わりましたといって来院し、まったくその点では屈託がない。
一見我が道を行くようでいて、たえず対人恐怖症患者は人とのへだてのない交わりを求めないではいられないのだ。
このような型破れ型は、「愛着と自立が混交しながら、両者の統合性がわるく、それらが分割の機制によって目まぐるしくいれかわり、一貫性のない行動を示す」点が特徴的である。
分割の機制とは、D子さんの例でいえば、わが道を行く自立心と、人との交わりを求める愛着・依存心を自分でも自覚していながら、両面を統合しようとせず、転職の繰り返しによって、その一面のみにその都度自足して安心感をえようとする心の動きをいう。
実際には、そのような切り分けがいつでもできるわけではなく、家族に本当は依存し、いい子の側面を見せるかと思うと些細なことにへそを曲げて暴君に変貌し、家族も対応に困ってしまう場合が多い。
近年専門的には、このような症例を境界(ボーダーライン)例あるいは境界人格とよぶ傾向が一般化しつつある。
しかし、このような境界概念の乱用はこのましいことではない。
対人恐怖症が主症状であれば、対人恐怖症と診断してなんら臨床上不都合が起こるわけでもなく、かえって境界人格などと名づけて下手に人格の問題に治療的なはたらきかけをすると、人格の混乱を促す危険がある。
たとえ精神科医であっても、人にはふれてはいけない人格の核心部分があるはずだ。
また著者が対人恐怖症に関して境界概念の乱用を避けるもう一つの大きな理由は、対人恐怖症では一般に、型破れ型は稀だからである。
対人恐怖症患者は型の乱れを非常に怖れる。
どう人に挨拶したらいいか、どう人と話したらいいか、そのときどういう仕草や態度をとったらいいいかと深刻に悩む。
悩んでいるがゆえに、実際には、対人恐怖症患者が思っているほど型が崩れることはない。
とはいえ、こういう話をしても、深刻に悩んでいる対人恐怖症患者には、ただの慰めの言葉にしかならないことが多い。
その場合には、崩れそうな不安定さを秘めた型も一つの型であり、あまり型にはまりすぎると味もそっけもないことを話題にするのがいい。
※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著