”対人関係がすべてではない”

けれども人間は、対人関係がすべてではない。
むろんこの世の中には、対人関係を離れて生きる場などはどこにもない。
しかし、その関与の度合いには濃淡がある。

私たちは時に対人関係のわずらわしさからはなれて、自然の懐に抱かれたいと願う。
それも一つのストレス解消法であろうが、現実離れの生活は一時の慰めか、特殊人に許されているに過ぎない。
もっと身近にその解消法があるのではなかろうか。

その一つは、社会における個人の役割から、対人関係を可能な限り切り離すことである。
たとえば職場で与えられた職務を十分にこなせている限り、対人関係でぎこちなく、少し変わり者とみられたからとて、どうということはない。
職人はたとえ偏屈者でも、自分の仕事を立派にしあげれば、世の中に大手を振って通用するはずだ。
商人にも商人気質というものがある。
商人には信用が何よりも大切だ。
それは口先三寸でなりたつものではない。一般に〇〇気質という場合の気質は堅気に通じる。

社会生活において大切なのは仕事や役割であって、対人関係は二の次であるべきだ。
ところが、この第一が仕事や役割、第二が対人関係という順位に、逆転が見られる場合に精神の混乱をきたすことがきわめて多いのである。

社会的に仕事一途、役割への過剰同一化が問題にされているけれども、よくみれば、やはり対人関係が第一順位にされているのである。
対人関係が第一順位にされると、おのずと対人関係に振り回されがちとなるのはいうまでもなく、その結果、仕事や役割は二の次とされて、社会における自己の位置づけを見失うことになる。そのためにいっそう対人関係にふりまわされてゆく。

仕事や役割の重視は、森田正馬がその対人恐怖症の治療技法において重きをおいたことがらである。
それは、対人的な至適距離の保持という問題に直結する。
これまでの文脈から言えば、自他のあいだに「間」をおくという意味にもなる。
仕事ができればそれでいい、役割を果たせばそれで十分、対人関係は二の次というのは、「間」をおく重要な手段となるのである。
しかし、情報化社会にあっては、対人関係が第一順位におかれる傾向をつよめているのか、対人恐怖症の治療の現場ではこのことを対人恐怖症患者に納得してもらえない。なかでも、社会に出る前の学生の場合は時代の影響をもろに受けるのか、学生としての役割意識すら分散しがちであり、またこの年代特有の対人関係重視の姿勢は根強く、そのためにこの面での意識のおき替えはなかなか難しいというのが実情である。

もともと対人恐怖症の精神療法や精神衛生の問題は、教育と同じで、社会全体の課題でもある。
そのことを考えれば、個々の対人恐怖症の治療者が限界につきあたるのは、やむおえないことである。
とはいえ、マックス・ウェーバーのいうように、資本主義の精神がその原点において堅気の心に通じていると考えるなら、このような対人恐怖症の治療姿勢が無意味だとは思えないのである。

余談になるが、社会全体の精神衛生の問題として述べておきたいことがある。
近頃は明朗、社交的で、いわゆるねあかな人間のみをもてはやす軽佻浮薄な言葉をよく耳にするけれど、みずから首をしめるような言動はやめていただきたい。
ねあかだけの人間には何の独創性も期待しえないというのは、対人恐怖症の精神医学の一分野である病跡学の常識といっても過言ではないからだ。
それでその種の言動で、わざわざ互いに生きにくい社会にすることもあるまいと思う。

※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著