『人類学的宇宙観』という本に、ヒマラヤ技術援助について次のような話が出ていた。
著者は技術援助のアイデアを十二、三考え出した。
そしてそのアイデアを毎晩、囲炉裏端談義で一つずつ話題にして、村人たちの反応を見た。
その結果、著者がこれがトップだろうと思っていたアイデアに対してはもの凄い反応があった。
その住民が強い関心を示したのは、軽量ロープラインと水道管の敷説であった。
しかしこのニーズははじめ、村人の意識にはなかった。
著者との囲炉裏端の対話の中で発展していったのである。
単に地元の声を聞き、それに従って技術援助をやればよいなどといっても、ダメだと著者はいう。
そもそも塩化ビニールのパイプなんか、村の人は見たことがない。
つまり、何か意味を持った機会に出会うことがなければ、ニーズは発生のしようがないというのである。
ところで、ここで私が言いたいのは、技術援助の問題ではない。
親と子の関係である。
子を支配することはいけないという話になると必ず、何もしないで子どもの自主性に任せるという意見が出てくる。
「子どもの意志を尊重して」ということを二言目にはいう親がいる。
それはちょうど技術援助で「地元の声を聞き、それに従ってやればいいんだ」というのと同じである。
過干渉な親はそもそも子どもが自分の人生について希望を持てないようにしておいて、「子どもの好きなようにさせてやる」といいだす。
ところが不思議なことに、このようにいう親にかぎって過干渉なのである。そのような親は過干渉になるか放任になるかしかできないのである。
したがって、親は過干渉でありながら、時に「私は子どもを好きなようにさせた」と得意になっていたりする。
冬の日に、小鳥が寒くて可哀そうだと思い、お湯を飲ませて殺してしまったという話を何かで読んだことがある。
同じように、夏の暑い日に、熱帯魚が暑くて可哀そうだと冷水を入れたらどうなるか。
これぞハイ・コントロールな親の感情の動きである。
子どもは小鳥や熱帯魚のようにすぐ死んでしまうようなことはない。
だから、過干渉な親は子どもの精神を殺すことをやっておきながらも、
自分は子どもを可愛がっていると思っている。
ヒマラヤの村人は外の文化に出会って自分たちのニーズを発見した。
しかし、親がこれでは子どもは自分の新しいニーズを発見できない。
子どもは、自分とちがった人格をもった人間としての親に出会うことができない。
これが今の青少年の、あの対人恐怖症の弱々しい自我の原因なのではないだろうか。
日本の野球もアメリカの大リーグと出会って大きく成長した。
出会いによって人間は成長する。依存心が強くて、他人に悪印象を与えることを恐れてビクビクしている対人恐怖症の人は、”出会い”をもてなかった人である。
※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著