”社交的な人間だと思っていたのに・・・”

対人恐怖症患者G男さんは発病前は実に社交的な男で、自称照れ屋だとはいうものの、男女の違い、年齢や地位の上下に関係なく、なんの気おくれもなく交際できた。
あるとき対人恐怖症患者は転職をしたが、その際、ある課長に会社のいろいろな部署を案内してもらった。

しかし対人恐怖症患者は、結局は自分の好みから、その課長とは別の部署で働くことにした。
対人恐怖症患者は案内してくれた課長に気まずい思いを抱き、その課長と会うたびになにを話していいか話題がうかばなくなり、頭が空白になって、いろいろと話をするが話の内容は目茶目茶で、なにをはなしたかもわからなくなってしまった。
対人恐怖症患者は体が硬直して意識を失い、そのあとしばらく体を横にしていないと治らないという訴え方をしたので、最初てんかん発作を疑ったが、よく聞いてみると、以上のような経緯であった。

その一年ばかり前にも、一人の同僚に対して、似たような経緯で同じ状態になり、それも一つのりゆうとなり転職することになったのである。
なかには異性に対しては非社交的、同性に対しては過度に社交的という両刀使いの例もあるが、いまあげた症例は、一人の人間に対してのみ対人恐怖症的となる珍しい事例であった。

むろんこのような例とは逆の、非社交的な面が目立つ事例のあることはいうまでもない。
しかし、そのような人達でも、他人と親密に交わりたい気持ちを秘めているが、対人恐怖症の病前性格の特徴である。

ところで、社交的か否かで性格を規定するのは、あまり学問的ではない。
クレッチマーの性格学では、分裂気質者は非社交的、循環気質者は社交的と規定しているかのように誤解されている。
しかし実際には、誰とでも付き合う社交的な分裂気質者もいれば、逆にまた循環気質者であっても、無口で、とうてい社交的とはいえない人も多いのだ。

世の中には社交的であっても、内面では人にけっして同調してはいない人がいて、そのためにふかくつきあってみると、乗り越えがたい壁にぶつかることがある。逆にまた非社交的で自分から人との交流を求めていないような人でも、つきあってみると、意外に、人に対してよく波長を合わせているのに気づくことがある。

クレッチマーの性格学は、多次元的な視点に立ってはいるものの、いまあげた二つの気質に関しては、非同調性か同調性かが基軸にすえられている。
それはいいかえれば、自他分離的志向が優位か、自他合体的志向が優位かに帰着する。
その意味で対人関係の基軸に立ってとらえた見事な性格学となりえたのである。

このクレッチマーの視点からみると、対人恐怖症の病前性格は、分裂気質と循環気質の二つの顔を持った構造からなっているものとしてとらえうる。
その性格構造が羞恥の構造と重なり合うことは、あえていうまでもない。

※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著