”「はにかみ」の美しさ”

著者は以前ウィーンでの世界精神医学会で、恥じらいという両義的感情が日本人の対人関係の基本となっており、いかに欧米流の個人主義の影響をうけようが、私たちは今後とも羞恥の文化を保持し続けるであろうという報告をした。

最後に、「おのれの不道徳を恥ずることは、ついにはおのれの道徳を恥ずるにいたるべき、階段の第一段である」というニーチェの言葉でしめくくったところ、発表後、関心をもってくれたアメリカ人から声をかけられた。

まともに会話もできない著者は、逃げるが勝ちとばかりに、そそくさと退散したが、関心をもつアメリカ人がいるところをみると、ジンバルド流の見方はアメリカ人のすべてがみとめているわけではなさそうである。

ジンバルド流の見方は、私にはHow terrible,how terrible!としか思えないが、幸い日本ではシャイを美しいとみる含羞美の価値はゆるがないようである。

礼宮様の婚約内定者の川嶋紀子さんの姿がちょうど放映されていた時のことである。
報道陣に質問を受けていた紀子さんは黙ったまま、さわやかなはにかみの笑みを浮かべるのみであった。

テレビの出演者たちは、何度も「はにかみ」という言葉をつかっていたが、たしかにそのはにかみの姿は美しい。

美しいだけではない。

「はにかみ」は「おくゆかし」という古語の語義にも通じる。

その姿がなお日本人につよく訴えるものであるとしたら、日本における対人恐怖症の治療は、ジンバルド流とはおのずと異なってくるはずである。

ここで羞恥的構造の三項図式(図7)を示しながら、拙著『羞恥の構造』でおこなった説明文を転載しておく。
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図7

<羞恥体験における行為主体者は、「間」において示現されるもの、あるいは「間」としか名づけようもないものである。

そして「自」と「他」はそれぞれ、「間」を通して主体性が付託される。

その際、自己の主体性を絶対化して我執性のみにとどまれば、自己の誇りは誇るべき根拠を喪失する。

その誇りや自負は、同時に他者への謙遜や尊敬の念を通して自他をこえる本来の主体者である「間」が指し示され、その「間」を介して自己に許容される。

また同じく、他者の主体性を絶対化して没我性にのみとどまれば、他者が謙遜や尊敬の対象となるべき根拠を失う。

そのような根拠は、自己の誇りや自負の念のよってきたる所以が自他をこえる本来の主体者である「間」であることから「間」が指し示され、その「間」を介して他者への謙遜や尊敬へとうながされることにある。

一般に、他者への謙虚さや畏敬の念を持ちえない者は、自尊心をもつこともできない。

もしもったとしても、勝手にそう思い込んでいるだけの空虚なものと化す。

また同じく、自尊心なくして謙譲の心はありえず、真に他者を尊敬することは不可能である。

それは卑屈な隷属の精神にしかなりえない。どちらであれ、人間関係における「自」と「他」の真の相互性はなりたちえない。

真の相互性は三項図式的両義性において成立するのである。

羞恥とは、まさにこの両義的構造をもった体験としてとらえうるものである。>

※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著