”うわすべりに生きている”

規範意識の肥大化した対人恐怖症の人には、おそらく尊敬してやまない誰かがいるであろう。
自分の父親であるか、自分が属する宗教の教主であるか、誰であるかはわからないが、誰か尊敬してやまない人をもっているにちがいない。

しかし対人恐怖症の人は実をいえば、心の最深部においてはその尊敬してやまない人を疑っている。
憎んでいる。
その人を信じてはいない。
心の最深部でもっとも不信を抱いているのはまさに、自分が尊敬してやまない人と自分が思い込んでいる人である。

もし、心の奥底からその人を信じそんけいしているならば、どうしてもっと、毎日が心安らかでないのだろう。
どうして他人に、自分をこのように受け取ってほしいと思って、実際の自分をいつわることがあろうか。

どうして虚栄心から他人にウソをつくことがたびたびあろうか。

どうしてこころにもないことをいったりしようか。

どうして自分が受け取って欲しいように他人が受け取らないと不満になることがあろうか。

規範意識が肥大化した対人恐怖症の人は、同時に劣等感にも悩まされているに違いない。
心の奥底で”最愛の人”を決定的に疑っているからこそ、心をひらく友人もできないのであろう。

規範意識が肥大化し、劣等感にさいなまれている対人恐怖症の人は、だからこそ、何か心の中に外に出したくないものの存在を感じているのである。
外に出したくないものを心の中に感じるからこそ、何か落ち着かないのである。

それは、名づけることができなくても、心の中にあって、絶えず人を脅かしつづける。
それこそ尊敬してやまない人への不信の念なのではなかろうか。

対人恐怖症の人は心の中にその人への憎しみや怒りを抑圧している。
だからこそ、何か幸せなことがあった時でも、心ゆくまで幸福感にひたれないのである。

対人恐怖症の人は人間不信の感情に眼を背け、何を叫んでみても嘘くさい。自分にも何か嘘くさく感じるし、他人にも嘘くさく感じる。

対人恐怖症の人はその嘘くさいと感じる感じ方を抑圧するためにさらに大きく叫んだり、不自然に大げさな態度をとったりする。

対人恐怖症の人は意識的に喜んでいる時も、無意識の部分では悲しんでいるのである。

対人恐怖症の人が我々の存在を無意味なものにしてしまうのはこの点なのである。
対人恐怖症の人は喜んでいる時もこころの奥底では悲しんでいる。
対人恐怖症の人は希望をもっている時も、心の底では絶望している。

このような意識と無意識の不統合こそ、われわれの存在を無意味なものにしてしまうのである。

対人恐怖症の人の生きていることが何かうわすべりなこと、何か嘘くさいことと感じさせるのはこの点である。

自分にとっての価値の源泉、自分が最大の価値をおいている人、その人を心の最深部で決定的に疑っている人は、悲しい時も泣けない。
そのような人はなかなければならないと思って泣くから、泣いていても何かわざとらしいのである。
自分自身も、何か泣こうとして泣いているような不自然さを感じる。

人生は悲しみによっても意味づけられる。その悲しみは、無意識と意識が統合された悲しみである。

生きることには多くの悲しみがともなう。
人生は別離の連続でもある。信じていた価値との別れもあれば、恋人との悲痛な別れもある。
親子の別れもあれば、住み慣れた故郷との別れもある。

恋人との別離にさいして人は、あの人と別れてどうして生きることに意味など見つけられようと思う。
しかし、その悲しみが統合された悲しみであるかぎり、必ず人はその悲しみからいつかは回復する。
親しい人との死別でさえ、時間とともに克服できる。

悲しみは決して人生を無意味にするものではない。

人生を無意味にするのは、ほんとうに悲しんでいないのに、悲しいふりをする時である。”ほんとうに”とは、心の表面でも最深部でも同じ感情ということである。

自分の心の底にべっとりくっついている人間不信の感情に眼を背ける人は、人生に意味を感じることはできないであろう。

※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著