●生きることに自信をもち、人生を信じる

”人間不信がこびりついていないか”

几帳面といい、過度な責任感といい、うつ病の病前性格というものは、不安な緊張や対人恐怖症などからきている。
そしてその底には、自分に対する絶望感がある。
それこそが、不安な緊張、対人恐怖症の正体である。

不安な緊張や対人恐怖症とは感情が過度に緊張することである。
対人恐怖症の人は自分の本当の感情を表現することを恐れ、過度に緊張する。
対人恐怖症の人は自分の本当の感情を自由に表現できないことから、何か自分を弱々しく感じてしまう。
そして、自分に対する絶望感におそわれる。

対人恐怖症の人は攻撃性を抑圧すると、人生を悲劇なものと解釈しやすくなる。
生きることは辛い、しかし死ぬこともできない、という考え方である。

対人恐怖症の人は人間にとっての小さな不都合をおおげさに考える。
どうでもいいことをどうでもいいこととして見過ごせない。
それがあたかも良心であるかのごとく錯覚する。

抑圧の強い対人恐怖症の人は、過剰な偽りの良心をもつ。
同時に快楽への願望が人一倍強い。
それは抑圧からくる人生への無意味感が強いからである。

規範意識の過剰な対人恐怖症の人というのは”何々をすべきである””こんなことはすべきでない””人間は応用であるべきだ””もっと他人には寛大であるべきだ”などと考える。

こんな過剰な規範意識で自分と他人を批判している対人恐怖症の人は、一度本気で自分の心の底の底の、そのまた底をのぞいてみるがよい。
その底にはべっとりと”人間不信”がこびりついているにちがいない。

意識のうえでは”べき、べき、べき・・・”と”べき”で塗りつぶされている心も、無意識の領域にいたれば”不信、不信、不信・・・”と”人間不信”でぬりつぶされているのではなかろうか。

自分を信じられない、他人も信じられない、そういう人間不信の感情を抑圧するために、過剰な”べき”をもちだしてきているのであろう。

人間を信じている人が、どうしてあんなに不安でいらだつことがあろうか。
生きることに自信をもち、人生を信頼している人が、どうしてあんなに不安な緊張や対人恐怖症に疲れていることがあろうか。

自分を信じ他人を信じている人が、どうしてあんなに眉をひそめて不機嫌になることがあろうか。

※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著