”間こそ真の主体者である”

ここで、個としての主体者、つまりは自分というものを考え直してみる必要がありそうだ。

これまでつかってきた「自」と「他」という言葉から検討してみよう。

ここでいう対人恐怖症の「自」と「他」は、分離と合体という相反する志向のむかうそれぞれの極をさしている。
その際の「自」極、「他」極には、「我思う、故に我あり」といった明証性などありはしないのだ。
いまではもう、デカルト流の考え方は通用し得なくなっている。

たとえば「私」という場合、その「私」という「自」の極は、じぶんという個体におかれる場合もあるし、自分の所属する会社などの集団を漠然と指し示すこともある。
他人の身になって考える場合には、「自」は他人という個体にすらおかれうる。
同じく「あなた」と呼びかける場合、呼びかけられたのは「あなた」という一個体と決まったわけではなく、あなたの属する「会社」であるかもしれない。

その際、「あなた」という個体の意向などは無に等しいこともありえよう。
恋する人にとっての「あなた」は、恋する人の「私」でしかないこともありうる。
街で一度見かけた女性に一目惚れしたある対人恐怖症患者は、相手の意向などに関係なく、連日電話や手紙で「あなた」とよびかけた。
その際の「あなた」は、もはや「他」性をもった「あなた」ではない。

日本語では、主語として特定の個としての人間を指し示す「私」や「あなた」という言葉をあまりつかわない。
つかわないですむのは、本来的に「私」も「あなた」も明確な個別性をもっていないからである。
とすれば、真の主体性が個としての存在にあるなどというのは、幻想以外の何物でもなくなる。

そう考えると、人と人との「間」こそ真の主体者だという見方は何の不思議でもなくなってくる。
「自分」とは、人と人との間柄性によって、その都度付託された主体性の分け前、つまりは「分をわきまえろ」と言われる場合の、「分」だということになる。

※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著