●つくり笑いはうまくなったけれど
”従順なよい子に仕立てられて”
対人恐怖症の依存心の強い者は、他人の言動や気持ちに対しての要求が強い。
しかし他人は、依存心の強い者の要求通りに行動することもないし、ましてや要求どおりの気持ちになることもない。
対人恐怖症の依存心の強い者は、イソップ物語の北風のようなものである。
旅人のマントを脱がせるのに北風をビュービュー吹かせる。
しかし旅人はいよいよマントをしっかりとにぎりしめる。
通常の人間関係であると、人々はそうした依存心の強い人間を避けるようになる。
一緒にいても堅苦しいし、第一、楽しくない。
しかし親子関係だけは逃げることができない。
依存心の強い親は、ここで子供に喜んでもらいたい、ここで子どもに悲しんでもらいたい、ここで子どもにはしゃいでもらいたい、ここで子どもに黙っていてもらいたいというような、様々な要求をもつ。
しかし子供の気持ちは親の言う通りに動くものではなく、自然の法則に従って動く。
つまり、不機嫌な親と狭い空間に一緒にいる時には面白くない。
気持ちはうきうきしてこない。
逆に学校で友達と楽しいことがあった時は嬉しい。
親が会社で不愉快なことがあって家に帰ってきたとしても、それとは別に愉快である。
親が忙しいというので邪魔者扱いされて、「どこでも好きなところへ行ってこい」といわれたとて、子どもは嬉しくはない。
そんな時、「好きなところに行ってこいといっているのに、なぜ嬉しがらないのだ」と怒ってみても仕方がない。
対人恐怖症的である。
依存心の強い親の要求は、常に自然の法則を無視している。
写真を撮る時、「笑ってください」といわれる。
とられる人は作り笑いをする。
笑ってくださいといわれて急におかしくなる人はいない。
それと同じことである。
ただ、写真をとる人は、そこで「どうしてもっとおかしそうに笑わないのだ」と怒りだしはしない。
ところが対人恐怖症の依存心の強い人は、ここで怒り出す。
自分の要求が通らないと泣き出す。
自分がかまってもらいたい時かまってもらえないと泣き出す。
それと同じく、依存心の強い親はここで怒り出し、えんえんといつはてるともなく文句を言いだす。
ネチネチといつ果てるともなく相手を責めだす。
イライラしている人間が、「さぁ、楽しくやろう」といっても、いわれたほうは楽しくする気にはなれない。「今日は失礼する」といって逃げ出すに違いない。
会社の場合ならこれで済むが、親子、夫婦となるとそうはいかない。
「楽しくやろうといっているのに、おまえはなんで・・・」と相手をネチネチと責めだす。
ネチネチと陰湿に責められながら、楽しめと要求されても楽しめないのは当然である。
ところが対人恐怖症の依存心の強い者は、いよいよおもしろくない。
自分の要求通りに相手の気持ちが動かないからである。
そして、強い立場にある者は北風の力を頼る。
イソップ物語は、たまたまあるところで北風が暖かい太陽に替わるが、現実の生活にはこれがない。
依存心の強い者が強い立場にあると、マントがちぎれとぶまで北風を吹きつける。これが、神経症、対人恐怖症、その他の情緒障害であろう。
依存心とは小さい子どものように無力な者のもつべきもので、大人がもつべきものではない。
おとなが依存心が強ければ、周囲の弱い立場の者、無力な者は情緒の成熟を期待できない。
無力な者は、依存心の強いおとなの期待するとおりの気持ちになることで”従順なよい子”になるか、神経症、対人恐怖症になるしかない。
ただ、依存心の強いおとなの期待するとおりの感情をもつということは、自分の自然な感情を殺すことであるから、”従順なよい子”とまわりには映ったとしても、内面には神経症や対人恐怖症などのさまざまな情緒障害を持っている。
※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著