●「人見知り」の意味
”神経症と正常は同一レベル”
既に対人恐怖症の病状変遷の全容をのべておいたが、その各段階を特徴づける倫理的な在り方をも付け加えて図式的に示すと、図5のようにまとめることができる。
図のなかで示されている倫理的な在り方の段階的変化を、以後倫理的推移となづけることにしたい。
この図で対人恐怖症の症状変遷の原点として<人見知り>段階をおいたのは、森田療法以来、対人恐怖症が羞恥の病理としてとらえられてきた学問的伝統をふまえている。
さらには実際に対人恐怖症の病前に人見知り傾向がかなり多く認められ、また認められない例であっても治療過程で、隠れていた人見知りがうきぼりにされてくるという対人恐怖症の臨床的事実にもとづいている。
この図に関して読者は、人見知りという正常現象を症状変遷という病理現象に入れることに違和感をおぼえられるに違いない。
しかし、そもそも神経症は正常と移行しあっていることを考えると、いわゆる正常も病理も、同一レベルでとらえることが大切である。
神経症に悩む人たちは、その点を拳拳服膺しておくことが望ましい。
もう一つ、疑問を持たれるだろう点は、なぜ羞恥が倫理とかかわるかということであろう。
倫理などという言葉を使うと、とかくかた苦しい印象をあたえがちであるが、倫理とは、和辻哲郎のいうように、人と人との間柄についてのあるべき姿だと考えるならば、私たちに身近な問題となる。
これから論じてゆくように、羞恥は優れて倫理的構造をもったものなのだ。
以下、対人恐怖症にみられる「間」の困惑を手掛かりにして、「間」をめぐる対人関係の在り方を検討し、さらにその在り方と人見知りとの類洞性をあきらかにしたい。
とはいえ、このサイトの目的は治療、克服にあるので詳しい理論的考察を知りたい方は、拙著『対人恐怖の人間学』『羞恥の構造』『正気の発見』を参照していただきたい。
※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著