“見せかけだけの良好な適応”

対人恐怖症の人の表面上の柔和さの危険について述べている人はフロムやヒルティばかりではない。
精神病理学者のウルフもこの柔和の陰に隠されている神経症的なものについて指摘している。

「彼らは一般に甘やかされて傲慢に育った神経症気味な連中で、あとで諸君の友情を利用しようとしてその柔和さという網に諸君をひっかけようと最善を尽くして足を踏み込んでくる…気持ちをつかむことが彼らの商売でこの商売にかけて彼らは腕利きなのだ。・・・よくある、この気持ちをつかむ名人のわなにひかかることを完全に避けることは不可能なことだ」『どうしたら幸福になれるか 下』W・Bウルフ著

「見せかけの適応」という言葉がある。
あるいは「疑似成長」ということもいわれる。

対人恐怖症の人は自分の内面には充足感がない。
対人恐怖症の人は内面的には不幸である。
対人恐怖症の人は母親への愛情欲求不満からおとなになっても隠された一体化願望をもちつづけている。

対人恐怖症の人はそこで他人の関心を得ようと如才なく振る舞う。
しかし、心の中には愛情はない。
対人恐怖症の人は心の中が冷たいからこそ、いったん得た関心を失うまいとまた如才なく振る舞うのだ。

対人恐怖症の人は外から見ると円満に見えるが依存心が強い。
おとなになっていぞんしんが人一倍強いということは支配欲が強いということは支配欲が強いということでもある。
対人恐怖症の人は支配欲を内に秘めた「ずるい」人間なのに、他人には円満である印象を与える。

対人恐怖症の人の外面がよい、というのはこの円満であるという印象を与えるからである。
ところが実はこの人にとっては、他人に円満さを印象付ける必要がある。
他人から「いい人」だと評価してもらう必要があるからである。

しかし、対人恐怖症の人のその内面は、支配欲、依存心、空虚感でいっぱいである。
その内面の不満、不安、怒りを内面の人間にぶつける。
内づらの悪さである。

見せかけの良好な適応と、実際の良好な適応とはどこで見分けるか。
ひとつは、その人が心をひらいて親しくしている親友がいるかどうかということである。

対人恐怖症の見せかけだけの良好な適応をして円満な印象を他人に与えている人は、心の底に敵意や恐れをもっているから、さいごのところで他人と親しくなれない。
たくさん知人はいるかもしれないが、最後のところでは誰も信頼していない。
周囲の人も「あいつのためなら」とひと肌もふた肌もぬぐということはしない。

そういった人は、実は疑い深い人なのである。
その疑い深さを隠して表面はにこやかにしているだけである。
だから相互信頼に欠けるのだ。

対人恐怖症の彼らをよく見ているとケチであることがわかる。ものを所有することに執着している。
もちろん派手に他人におごったりする人もいるが、それも他人に自分をよく見せるためにはお金に頼らざるを得ないという自己無価値観に深くおかされているからにすぎない。

アメリカの女性心理学者のフィット・テイカーという人が、ものを所有することに執着する人は、他人に対し恐れと敵意を持っていると書いているが、その通りである。
自分も他人も信用できない、頼りにすることができないのである。
当然心は不安であろう。その不安からものを所有することに対する執着が生まれる。

その人に深く関わったことのない人は、「あの人は円満な人だ」という印象を持つかもしれないが、内側からその人を見た人間には、ただただ驚くばかりの強欲さと冷酷さが眼につくのである。

そのような対人恐怖症の人はずるいから巧妙に自分の内面を外側の人間に隠すけれども、内側でその人のケチや不機嫌に付き合わされている人にとっては地獄なのである。

※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著