”意地っ張りだがすぐ折れる”
(参照)
ところで、この点をF子さんに指摘し、「あなたの話を聞いていると、たいへんな意地っ張りだね。負けず嫌いで折れるということを知らないんじゃないの。意地も結構だけど、かえって生きにくくなることもあると思うけどね」といったときに帰ってきた返事は、まことに興味深いものであった。

F子さんは直ちにすごい意地っ張りであることを認めながら、「でも私は、すぐ折れてしまうほう。
仕事柄、お客が無理を言っても、すいませんというようにいわれているし・・・。
私は、そんなとき泣きべそみたいな顔する人は大嫌い」という。

さらにF子さんは、仕事だけでなく、他の付き合いでも、すぐ折れる方だと語る。
意地っ張りなのにすぐ折れるというこの矛盾は、対人恐怖症の精神病理構造を念頭に入れておかないと、
その重要な意味を見逃してしまいがちであるが、ようするに患者は、折れそうで折れないあるいは折れながら折れる気持ちをわかってほしい、といった対人恐怖症の中間形態、いうなれば羞恥の姿を示せないのだ。
そこには「間」の困惑の回避があるといってよい。
裏を返せば「間」への著しい困惑感情が潜んでいるという意味になる。
治療にあたって、その点への着眼が大切だ。

F子さんは、たしかに視線恐怖でもって初発し、その前段階の症状はみられない。
しかし、そのような症例が時折あるからといって、それはなんら対人恐怖症の病状変遷論の反証となるものではない。
症状というかたちをとらなくても、たとえばD子さんでは、<赤面恐怖>段階、<表情恐怖>段階にみられる屈辱の意識から、<視線恐怖>段階の破壊的視線における罪の意識への推移が判然としている。

そればかりではなく、対人恐怖症の病状変遷が進むとともに背景化する「間」の困惑は、このように前段階が一見欠けている対人恐怖症の症例であっても、治療過程において浮彫にされてくるのである。
それは、精神分析学が現在の治療者――患者関係の分析を通して幼児期の親子関係を解明するのと一脈通じた手法である。

この方法上の問題はともかくとして、視線恐怖の治療にあたっては、「あなたが見たからといって相手がおちつかなくなるなどと思うのは気のせいで、相手はなんとも思っていないよ」といった気休めの言葉は、ほとんど効果がない。

それよりも大事なのは、森田正馬のように面伏せのしせいをとらせるとか、対人恐怖症患者がさまざまな対人関係のなかでとる意地っ張り根性や一歩退く譲歩の大切さを話題にのせることである。

しかし、それよりもっと効果的なのは、視線やそれに直接関連したことに治療者自身があまりとらわれず、それよりもその背景にある対人関係の「間」の問題に、治療の焦点をおきかえてゆくことである。

※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著