●ただただまわりに受け入れられたい
”意のままにしようとする間違い”
不眠症などというものはあり得ない、という文を読んだことがある。
つまり、人間は眠らなければ死んでしまうのだから必ずどこかで眠っているはずだ、というのである。
したがって不眠症ではなく不眠恐怖症だ、という主張であったと思う。
おそらくこれは、半分は正しく半分はおかしい。
たしかに人間眠らなければ死んでしまうのだから、本人が眠るまいと必死になったって必ず眠ってしまう。そう考えれば不眠はあり得ない。ただ不眠症に悩んでいる人は眠りたい時に眠れないということに悩んでいるのである。
夜眠れないので、昼間に眠くなったりする。
この場合も他人の拒否と同じで、だれにとっても不眠は不快なものである。
しかし、そうなるのではないかと不安になる人と不安にならない人がいる。
その違いであろう。
そうした意味ではたしかに不眠恐怖症という呼び方も適当かと思う。
赤面恐怖症などというのも同じらしい。
実際に赤面することはまれで、そうならないかという不安ばかりが先立つのだという。
人間というのは、無意識の領域の必要性に従っているところが大きいのであろう。
その必要性のない時、はじめて意識の領域に従うのではないだろうか。
いろいろな恐怖症にかかる人というのは、自分の体を自分の意志に従わせようとしている。しかし、自分の体というのは自分の意志に従うのではなく、自然の法則に従うのである。
別の表現をすれば恐怖症にかかる人というのは、不安から自分の体を自分が所有し自分の意志にしたがわせようとするが、結局体は無意識の必要性に従ってしまうのである。
食欲不振、性不能、便秘、睡眠障害などで悩む人は、やはり自分で自分の肉体を所有し自分の意のままにしようとしている人であろう。
ところが、さきにも述べたようにその人の肉体はその人の意志に従わず自然の法則に従ってしまう。
本来、自分の体は自分のものだと思うところがおかしいのである。
ちょうど対人恐怖症の人が他人を自分の所有物と感じている人と同じである。
自分の子どもを自分の延長と考えている親が子どもの心を歪めてしまうように、その人達も自分自身を歪めてしまっているのである。
フロム・ライヒマンはうつ病者の主要な不安は捨てられることの恐れであるという。
そしてなぜ捨てられることが脅威であるかというと、他人を所有物としているからだという。
他人に拒否されることを恐れてビクビクして八方美人となる人がいたり、外面がよい人の内ずらが悪い対人恐怖症というのも、このようなことから理解できる。
対人恐怖症の人で外面のよい人は、心の底では他人を所有したがっている。
それが内の人間に対してむけられると内面の悪さとなってあらわれる。
対人恐怖症の人を所有するということは、いぞんしんがあって相手に一体化し、一体化することで相手を自分の意のままにしようとすることである。
つまり、対人恐怖症の彼らは他人の拒否を恐れ、受容を求める気持ちが強いために、それと矛盾する他人への敵意は抑圧する。
ところが、自分が親というような優勢な立場にたった時、見捨てられる不安は和らぐ。
そこで心の中に抑圧されている憎しみが表面化してくるのだ。
「近親いびり」という言葉がある。
自分の身近な人間を苛める人はたしかにいる。
自殺したある有名政治家は近親いびりであったという。
虚栄心ばかり強い情緒未熟児であったのだろう。
これとは少し異なるが内弁慶などというのも子どもの内面の悪さであろう。
外ではビクビクしているくせに、内では我がまま放題なのである。
※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著