「三つ子の魂百まで」
そもそも対人恐怖症の精神療法における親子関係の重視は精神分析学に由来するものといえる。
が、実は、もともと「三つ子の魂百まで」ともいわれてきたように素朴な認識には軽視しがたい重みがある。
実際、対人恐怖症者でも治療者を妙にかいかぶったり、それでいて治療者を批判的な目で見ているなど、幼児的親子関係の再現を治療の場で示すものがいる。
また、自分の親の些細な評価に過敏になって、すぐつむじを曲げたりする者を見かけることがある。
このような権威へのアンビバレントな態度から、エディプス・コンプレックス論で解釈しようとする精神分析学者もいるようである。
あるいは近年では、幼児期の発達段階のもっと早期の口唇期、肛門期に着眼する人たちもでてきている。
対人恐怖症の精神分析療法では、患者個人の親子関係を重視する傾向がある。
著者の経験を率直にいうと、このような患者の個別特殊的な親子関係を取り上げて、治療効果があったと実感し得た例は一度たりとも無い。
無いというより、そのような面に対人恐怖症患者の関心をむけた結果、かえって親子関係が悪化した例もある。
すでに指摘しておいたように対人恐怖症者の育った家庭は、一般に過保護、過干渉である。
実をいうと、そのような家庭環境が対人恐怖症を生みだす素地をなしているのであるが、それは、治療の対象にはならない。
とはいえ、家庭環境がどうであれ、人間は成長とともに親に対して批判的となる時期を経過し、そしてはじめて親から自立しうるようになる。
ちょうどその時期は、対人恐怖症が発症しやすい年代に相当する。
このこととも関係して、対人恐怖症者のなかには、親に対して著しく批判的となり、些細な親の干渉に過敏に反応する者もいる。
このような対人恐怖症患者に対して、治療的には、幼児期の親子関係に関し対人恐怖症患者だけに特別な問題があったとは考えず、ごく一般的な視点に立って常識的に応対するのが望ましい。
たとえば「君はまだ若いね。私も君の年頃にはそうだったけど、もう年のせいか、はいはいと聞き流せるようになったけどね」といった一般論で対応する。
F子さんのような場合でも、このような基本姿勢を変えない方がよい。
たしかにF子さんから聞く限りでは、不幸な家庭であったように思える。
しかし、直接親に確かめたわけではない。
実際F子さんは幼児期かわいらしい子だったに違いなく、また現在F子さんの暴言・暴力に親はただはらはらしながら耐えているらしい様子がF子さんのはなしからうかがい知れる。
このことから考えると、些細な親子の気持ちのすれ違いが積み重なって、両者の亀裂がふかまっていったのかもしれない。
対人恐怖症患者で些細な気持ちのすれ違いがエスカレートしてゆくことは、精神科臨床でよく見かける現象であるが、実際親に会ってみると、対人恐怖症患者の言い分とは著しく異なっている場合が少なくない。
どんな親だって子どもはかわいいものである。そう思って育てながら、どこかで子どもの気持ちがわからなくなるのは、いつの時代にもある世の親一般の嘆きである。
「すべて幸福な家庭は真に似通っているが、不幸な家庭はそれぞれに不幸の趣きを異にしている」とは『アンナ・カレーニナ』の冒頭で語られるトルストイの名言である。
治療において、不幸の趣きを異にする対人恐怖症患者の、個別特殊的な問題に深入りすると、不幸な治療のの結末に終わりがちである。
治療者は、互いに似通っている幸福な家庭も、不幸な家庭と同じ問題を潜在的にかかえていることを念頭におきながら、良識にもとづいて対人恐怖症患者と話し合うことがなによりも大切である。
※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著